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Vol.250Oct.2020

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

足利学校[栃木県]
唯一無二の
儒学の学び舎(や)

単に「神宮」といえば伊勢神宮を指すように、
かつて、「学校」という言葉も特定の教育機関を示す呼称だった。
いつの頃からか、所在した場所の名を冠して、その学び舎は「足利学校」と呼ばれるようになる。
日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルに「日本国中最も大にして、
最も有名な坂東(関東)の大学」といわしめた足利学校とは、いかなるものだったのか。

足利の地は、東北方面への交通の要衝だった。諸国から人が足を運びやすく、学校の評判も広まりやすかったという

全国にも例のない特別な教育機関

「日本最古の学校」といわれる足利学校だが、その起源ははっきりしない。歴史が明らかになっているのは室町時代の中頃、関東管領(かんれい)(鎌倉府の長官だった鎌倉公方を補佐する役職)の上杉憲実(のりざね)が自ら収集した古い貴重な漢籍(漢文で書かれた書籍)を衰退していた「学校」へ寄進し、鎌倉から臨済宗の僧侶を招いて庠主(しょうしゅ)(校長)として経営にあたらせるようになってからのことだ。

将軍のいる京の都でも、関東を統治するための出先機関が置かれた鎌倉でもなく、下野国足利荘(しもつけのくにあしかがのしょう)(栃木県足利市)で学生の養成に力を注いだのは、そこが時の権力者足利氏発祥の地だったからだと、史跡足利学校事務所の学芸員・大澤伸啓さんは指摘する。

「将軍家の故郷ですから大切な漢籍も末代まで受け継がれていくでしょうし、学生も安心して勉学に励むことができたはずです」

当時出世には、漢文で意思の伝達ができ、漢詩を披露するなどの教養が必須で、その習得には儒学(中国古代の思想)を修める必要があった。憲実が寄進した漢籍はいずれも儒学の貴重な経典で、寄贈は憲実の子や孫の代まで続き蔵書の中核となる。

上杉憲実が足利学校を再興した頃、国内で儒学を学べる場所はごく一部で、学べる人も限られていた。それゆえ、あらゆる人に門戸を開いた足利学校は他に類を見ない教育機関であった。貴重な蔵書を求めて日本各地から多くの学生が集まり、最盛期には3000人を抱えたといわれている。

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中国の明の時代の孔子廟を模した「大成殿」は、学校門とともに足利学校最古の建造物

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周囲に巡らされた堀と土塁は、戦乱時の焼失や略奪から蔵書を守るために築かれたと考えられている

キリスト教以外の宗教や教えは布教活動の障害となる。国じゅうから学生を集めて儒学を広めていたその影響力を、宣教師たちは脅威に感じたはずだ。

「簡単にキリスト教に教化されないほどの知識をもった人材を輩出していた教育機関の存在を、イエズス会の宣教師たちはザビエルの手紙を通じて知ります。足利学校は、日本にキリスト教を広める難しさを西洋に知らしめた存在だといえるのかもしれません」(大澤さん)

学生の大半は僧侶であった。入学や卒業の試験も学費もなく、好きなだけ滞在し、勉強することができた。ただ、誰にでも開かれてはいたが、実際に入学するには紹介状や推挙が必要だったと考えられている。

教科は儒学の基本である「四書五経(ししょごきょう)」の経典が中心。学生が最初に行うのはこうした経典の書写だった。一字一句正確に書き写すことで儒教的規範が身につき、書写し終わればそれが教科書となった。その教科書の欄外に、書いてあることに対する自分の考えを記入していく。考えを深掘りするためにほかの書物にあたり、時には指導役の僧侶に意見を求め、学友と議論を重ねて「自学自習」のスタイルで学びを深めていくのだ。ちなみに「学校」とは、儒学の経典の一つ『孟子(もうし)』のなかに出てくる言葉。まさに足利学校は、儒学を学ぶための「学校」であった。

戦国時代に入ると、儒学のなかでもより実用的な学問も扱うようになる。具体的には、中国の占いの書『易経(えききょう)』を解釈する易学、兵学や医学、天文学といった学問だ。出兵すべき吉日を占う易学や勝利に直結する兵学に長けた足利学校出身者は、戦国大名や有力武将の間で軍師や補佐役として引く手あまただったという。江戸時代初期の書物『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に武田信玄の逸話がある。ある時、軍師として仕官を望む者が現れたので、信玄は尋ねた。

「占いは足利にて伝授か(易学は足利学校で伝授されたのか)?」

その者は別の場所で学んでいたため採用されなかったが、このことからも足利学校出身者が易学の権威者と認められていたことがうかがえる。著名な足利学校出身者には、徳川家康のブレーンとして活躍し、徳川家三代に仕えた「黒衣(こくい)の宰相(さいしょう)」こと天海などがいる。

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学び舎は左の方丈と右の庫裡、奥の書院を玄関と廊下でつないだ建物。平成の文化財保存整備事業で、10年の歳月と約15億円を費やし1990年に完成したもの

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復原工事によって蘇った方丈の大広間。学習の拠点で、学校行事などもここで行われた

学び舎の衰退と平成の復活

盛況だった戦国期に比べ、江戸時代の足利学校は勢いに乏しかった。平和になったことで軍師の需要はなくなり、日本各地に武家のための藩校や庶民を対象とした寺子屋ができた。江戸にも幕府直轄の昌平坂(しょうへいざか)学問所が開設され、足利学校へ行かずとも儒学を学ぶ環境が整ってきたのだ。

幕府が朱子学を奨励したことも大きな痛手であった。朱子学とは簡単にいうと儒学の新しい解釈のこと。朱子学が主流になったことで、足利学校で学べる従来の儒学は受け入れられなくなっていた。さらに度重なる火災もあり、江戸時代の中頃から足利学校は急速に衰退した。ただ、易学の分野では依然として権威と認められていたようで、毎年1月16日に江戸城へ、年筮(ねんぜい)(その年1年間の占い)を届ける役目は果たし続けた。

歴代の徳川将軍から保護を受けて存続してきた足利学校だったが、明治の世になりついに終焉を迎えた。1872年に廃校になったものの、大成殿(せいたいでん)(孔子廟(こうしびょう))や学校門など敷地の西半分にはわずかながら江戸初期に再建された建物が残った。東半分にあった建物群は撤去され、長らく小学校の校舎があったが、現在は平成の文化財保存整備事業により江戸中期の姿が蘇っている。発掘調査や絵図、宝暦年間(1751〜64年)に火災にあった後の資材帳をもとに、学生たちが肩を並べて学んだ茅葺き屋根寄棟造(よせむねづくり)の方丈(ほうじょう)、庫裡(くり)、書院、庭園、堀・土塁などが当時と同じ素材、工法で1990年に復原されている。

江戸時代以前、最盛期の足利学校がどんな姿をしていたかは残念ながら分からないが、蘇った方丈の広い空間に身を置けば、時代を築いてきた先人たちも通ってきた「自学自習」の雰囲気を少しは感じとることができるかもしれない。

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平成の文化財保存整備事業で江戸中期の建物群が復原された足利学校(写真上)と、整備以前の姿(写真下)。敷地の東側半分には1876年から1980年までの間、小学校の校舎があった(写真提供:史跡足利学校事務所)

1668年の大改修以来、足利学校のシンボルとして現在まで継承されている「学校門」

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka