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Vol.263Jan.2024

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

湯島聖堂 [東京都]
太平の世を
支えた学問の府

JR御茶ノ水駅の北側を流れる神田川にアーチを描く聖橋(ひじりばし)。
橋を渡った右手の先、切り立った崖の上に
高い築地塀に囲まれた木々が生い茂る。
木々の間からは瓦屋根が見え隠れし、
塀伝いに歩みを進めると湯島聖堂の大成殿(たいせいでん)が姿を現す。
江戸時代には幕府直轄の学問所があり、
後に「近代教育発祥の地」と呼ばれることになる場所である。

現在の大成殿は1935(昭和10)年に、東京帝国大学の工学博士 伊東忠太教授が設計したもの。寛政期の姿を模して、鉄筋コンクリート造りで再建。国の史跡に指定されている

林家の家塾に端を発する霊廟と学問所

渡来人によって日本に儒教がもち込まれたのは513年。伝来は仏教よりも早かったが仏教ほどには定着せず、一部の僧侶らを中心に教養の一部として学ばれていた。儒教が脚光を浴びるのは、江戸時代になってからのことだ。

戦乱の世を平定した徳川家康は、権力で天下太平を維持するのではなく「立場の上下をしっかり守る」という儒教の価値観を重視して秩序の安定を目指した。戦国の世は下の立場の者が主君に取って代わる下剋上が珍しくなかった時代。臣下が主君に対し忠誠の姿勢を示し続けることは、幕府の支配体制を確固たるものにするためにも必要なことだった。そこで江戸幕府は封建支配のための普遍的な規範思想として儒教を採用。政治顧問として儒学者の林羅山を登用した。

4人の将軍に仕えて幕政を補佐した林羅山が上野忍ヶ岡(しのぶがおか)(現在の上野恩賜公園)の邸内に設けた孔子廟(びょう)こそが湯島聖堂の起源である。孔子廟とは、儒教の創始者である孔子の霊を祀る霊廟で、儒学振興のシンボルでもある。この孔子廟を祀り、家塾を開いて儒学の振興に努めていた林家のもとに足繁く通っていたのが5代将軍の徳川綱吉だった。儒学に熱心だった綱吉は、1690(元禄3)年に林家の孔子廟を、家塾とともに湯島(東京都文京区)へ移し規模を拡大して「大成殿」と改称。幕府と林家による半官半民の運営を始めた。移転の理由は、将軍の身でありながら民間の孔子廟へと何度も足を運ぶ将軍の姿に幕府が難色を示したからだと言われている。湯島への移転を機に、大成殿をはじめ、家塾を整備・拡張した「聖堂学問所」など附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。

創建時の大成殿は、屋根に千鳥破風(ちどりはふ)や唐破風(からはふ)、壁に花頭窓(かとうまど)を設け、建物全体を朱、緑、青などの極彩色の漆で彩色した寺院風の建物だったようだ。

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1690(元禄3)年創建時の大成殿。花頭窓が設けられるなど寺院建築の影響が見られる。この後、三度にわたって火災に遭い、再建のたびに規模を縮小させてきた

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1799(寛政11)年頃の大成殿。寺院風だったものが中国風に改められている

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湯島聖堂が昌平坂学問所のなかの一施設となった寛政再建時の様子(「寛政巳未改作廟學圖」より)。周辺の寺の跡地や街路を取り込んだ聖堂の敷地は約11,600坪(38,349m2)に拡大された

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1923(大正12)年の関東大震災で焼失するまで残っていた寛政再建の木造の大成殿(焼失前年頃)

身分や秩序を重んじる
朱子学に拠った学びを展開

寛政年間(1789~1801年)になると世にいう寛政の改革が行われ、学問の重要性が見直された。世の混乱は道徳心の欠如にあると考えた老中松平定信は、改めて忠誠の重要さを説くための方策として、身分や秩序を重んじる儒学の一つ「朱子学」のみが正しく、それ以外の学派を異学として聖堂学問所で教えることを禁じた(寛政異学の禁)。

1797(寛政9)年には、林家の家塾であった聖堂学問所を幕府の直轄下に置き、規模を拡大して「昌平坂(しょうへいざか)学問所」を開設。その2年後には聖堂を改築した。この時の聖堂は、明国の遺臣で水戸藩に仕えた朱舜水が水戸黄門でおなじみの徳川光圀のために製作した孔子廟の木造模型を参考に設計された。それまで寺院風だった聖堂を、外壁を黒漆塗りにした中国風に改めている。

この再編によって、講義が行われた「庁堂・学舎」、寄宿舎である「学寮」、図書館にあたる「文庫」などが整備され、「聖堂」と呼ばれていた孔子を祀る大成殿と附属の建造物は学問の象徴という位置づけとなり、昌平坂学問所のなかの一施設となった。しかしながら長きにわたって「聖堂」の呼称は広く知られていたため、昌平坂学問所となった後もこの場所は「聖堂」あるいは「湯島聖堂」と呼ばれ続けた。

昌平坂学問所は、これまでの林家の家塾としての性質を改め、幕府の旗本・御家人の子弟を教育する機関となった。学科には四書五経といった漢籍の素読、講義・講釈、学生間の輪講などがあり、試験は15歳以上を対象とした3年に一度の筆答試験「学問吟味」と、15歳未満を対象とし基礎学力の有無の目安にもなった漢籍の音読試験「素読吟味」があった。特に役人になるには、出仕採用試験でもある学問吟味に受からないと役に付くことができないため、幕臣の子弟はこぞって朱子学を学んだ。

幕臣の子弟以外にも諸藩の藩士や郷士、浪人などを受け入れたほか、一般庶民が聴講できる日もあり、より高尚な学びの機会を求める声にも応えた。諸藩の藩士らは藩の役付きや藩校の教授となる者が多かった。また、昌平坂学問所を模範とする「藩校」が各地で増え、藩士とその子弟が儒学に接する風潮が加速。教育内容はしだいに近代化の過程をたどり、後に藩校で養成された人々が明治維新後の近代日本を動かす中心的な役割を担っていくこととなる。

幕臣のほとんどが昌平坂学問所(前身も含む)の試験を受けたが、著名人では、外国奉行の岩瀬忠震(ただなり)や韮山代官の江川太郎左衛門、諸藩からは渡辺崋山(三河田原藩)や清河八郎(庄内藩郷士)らを輩出。さらには倒幕運動の中心人物の一人である高杉晋作(長州藩)も名簿に名を連ねている。

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台湾から寄贈された高さ4.57m、重量約1.5tの「孔子銅像」。孔子の銅像としては世界最大

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もともとあった孔子像は日本の仏師が彫ったと言われる。屋外の銅像が立像であるのに対し、仏像を思わせる座像であるのはその名残

近代教育を推進する各種機関を生み出す

明治維新後も昌平坂学問所は「昌平学校」「大学校」として存続し、東京大学の母体となったが、洋学を重視した新政府は1871(明治4)年にこれを閉鎖。林羅山以来240年の儒学の学び舎は、ここに歴史の幕を下ろした。閉鎖後にはすぐに文部省が置かれ、翌年には、殖産興業に力を入れる新政府の施策で、国内各地の産業・産物を展示する日本で初めての博覧会が開催された(現在の東京国立博物館の前身)。約1カ月の会期中に15万人が訪れるほどの盛況ぶりだったという。同じ年にはわが国初の図書館である書籍館(しょじゃくかん)が開館したほか、東京師範学校が置かれ、1874(明治7)年には東京女子師範学校ができ、それぞれ現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展している。1907(明治40)年に孔子とその高弟を祀る儀式「釋奠(せきてん)」が復活し、孔子廟としての機能がようやく回復。維新の大変革に遭っても、湯島聖堂は学問所としての伝統を受け継ぎ、各種教育機関を生み出して「近代教育発祥の地」たる役割を担い続けている。

1923(大正12)年の関東大震災で湯島聖堂はわずかに入徳門と水屋を残しすべてを焼失。1935(昭和10)年に東京帝国大学の工学博士である伊東忠太教授の設計で、寛政期の姿を模した鉄筋コンクリート造りで再建されている。

元禄の創建以来、四方に土塁を巡らせ周囲から隔離して敷地を守ってきた湯島聖堂だが、その雰囲気は令和の今も健在。樹木が茂る敷地内で江戸期の遺構と復興建物が当時の雰囲気を醸し出すなか、漢文を中心とした文化講座が年間を通じて開催されている。数々の幕臣を輩出し、近代日本を動かす人々を生み出したルーツでもある学び舎としての伝統は今に継承されている。

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焼け残った入徳門の色彩に合わせて、大成殿の外壁も黒く塗装された

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入徳門は、1704(宝永元)年に建立された聖堂内で唯一の木造建造物

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全体が黒く塗装された入徳門。ところどころに彩度を抑えた朱塗りが施されている

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大成殿の屋根から四方を睨む守護獣たち。妖怪が好きだったという設計者の伊東忠太教授らしいデザインが随所に採り入れられている

創建当時の礼拝空間を再現した大成殿の内部。創建時から聖堂の中核を成してきた孔子と四賢人の復元像が鎮座する

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka