歴史的建造物誕生の秘密を探る!
野木町煉瓦窯[栃木県]
北関東の発展を支えた
赤煉瓦の聖地
メタセコイア並木の合間から顔を出す長い煙突。
近づくと、次第にヨーロッパの古い要塞を彷彿とさせる巨大な煉瓦(れんが)造りの
建造物が姿を現す。外周約100m、正十六角形の屋根と壁をもつ
独特な形状の建造物は、栃木県野木町に現存する「野木町煉瓦窯」。
最新鋭の煉瓦専用焼成窯として建設され、煉瓦の大量生産を実現し、
北関東をはじめ日本の近代化を支える礎となった。
野木町煉瓦窯は、隣り合う渡良瀬遊水地とともに地域の重要な観光資源。煉瓦窯に併設された野木町交流センター「野木ホフマン館」はビジターセンターとしての役割を担い、カフェや多目的スペースを備え、地域を象徴する魅力的な空間を提供している。現在、野木町煉瓦窯には年間約2万人が訪れる
栃木県内初導入 最先端の煉瓦窯
明治維新後、政府が主導した殖産興業政策が実を結び、明治20年代に日本は本格的な「産業革命」の時代を迎えた。急速な近代化の波は地方にも及び、民間主導で企業が次々と設立。現代でいうベンチャーブームさながらの様相を呈していた。
鉄道の開通や工場、大型倉庫の建設に伴い煉瓦の需要が急増し、近代的な機械設備を備えた煉瓦工場が各地に誕生した。栃木県内でその先駆けとなったのが、下野(しもつけ)煉化製造会社である。北関東最古の煉瓦工場と考えられる1887(明治20)年設立の東輝煉化石製造所を前身とし、翌年に誕生した工場だ。関東4県にまたがる日本最大の遊水地である渡良瀬遊水地に隣接し、良質な粘土と川砂の採取が容易で、水運の利も得られる絶好の地に工場はあった。製造された煉瓦は北関東を中心に、需要の高い東京方面へも出荷された。
1889(明治22)年4月に、傾斜地を利用した登窯(のぼりがま)が完成すると、この窯で焼成した煉瓦で2基の煉瓦窯が築造された。前年にできた西窯に続いて、1890(明治23)年に東窯が完成。この東窯こそが、現存する「旧下野煉化製造会社煉瓦窯(通称、野木町煉瓦窯)」である。東西の窯にはともに、正十六角形の外観と長い煙突が印象的な「ホフマン式輪窯」と呼ばれる形式が採用された。ドイツ人技師フリードリヒ・ホフマンの特許にもとづくこの輪窯(東窯)は外周約100m、直径約32.8m、煙突高約34.5mという堂々たる規模。大量の煉瓦を連続焼成でき、当時の日本では数少ない最新鋭の設備だった。
国内に現存する4基のホフマン式輪窯のうち、野木町煉瓦窯は最古にして唯一、当時のままの姿を今に伝える遺構だ。他の3基の形状が楕円形であるのに対し、ドイツの初期の形である円形(正十六角形)をしているのはこの窯のみである。

2階部分には煙突の周囲にダンパーが配置され、これを開閉することで排煙を制御した

1階の焼成室へ燃料となる粉炭を投下する投炭孔。1つの焼成室に5×5列で計25カ所、窯全体では400カ所に配置された。積まれた煉瓦に均一に粉炭が行き渡る設計で、使用しないときは鉄の蓋で閉じられていた
連続焼成を実現するホフマン式輪窯
ホフマン式輪窯の大きな特徴は、煉瓦を焼く窯の部分(焼成室)が煙突を囲むようにドーナツ状に連なり、1つの大きな窯を形成している点である。焼成室同士がつながっているため、焼き上がった煉瓦が冷めるのを待たずに、隣の焼成室に火を移して次の煉瓦を焼くことができた。
野木町煉瓦窯は2階建て構造。煉瓦の焼成時、1階の焼成室では床から天井近くまで煉瓦素地(そじ)(焼く前の煉瓦)を井桁(いげた)状に積み上げ、出入口を煉瓦と泥で密閉。複数の焼成室内に煉瓦素地をセットしたあと、窯内に一時的に設けた焚口(たきぐち)で薪に火をつける。2階の投炭孔から1階の焼成室へ粉炭の投下を繰り返すことで焼成が継続されるという仕組みだ。
投炭孔は1つの焼成室に25カ所ずつ設けられ、穴から粉炭を投下すると煉瓦素地の隙間を通って、全体に行き渡る。焼きむらや煉瓦同士がくっつくのを防ぐ目的もあるが、粉炭が下へ通り抜けられるように煉瓦素地は少し隙間をあけて積み上げられた。
焼成室がつながっていることで得られる利点は、連続焼成以外にもある。焼成時に発生した熱は隣の焼成室の予熱に利用され、搬入のために開けられた出入口から入る空気は、焼成済みの煉瓦を冷やした。つまり、焼成と冷却を同時に行うことができたため、煉瓦を効率的かつ大量に生産できた。
焼成には、独自の工夫もなされた。焼成室と焼成室の間は、濡らした新聞紙を貼り合わせたもので仕切られた。隣の焼成室の焼成が進むと、適温で新聞紙が燃え尽き、次の焼成室への空気の流れが生まれ、燃焼がスムーズに次室へ移行するという仕組みだ。
焼成温度は約1000度に達し、全室の焼成には23日間を要するが、1つの焼成室で約1万4000個、全体では約22万個もの煉瓦を同時に焼成できた。
この画期的な連続焼成システムにより、野木町煉瓦窯は圧倒的な生産効率を実現。近隣都市の建築や土木事業の需要に応え、近代日本のインフラ整備に大きく貢献したのである。

天井の投炭孔の位置に合わせて煉瓦が積まれ、2階から投下される粉炭を効率的に受け止める構造となっている

■野木町煉瓦窯(1階)を上から見た図
16の焼成室が円環状に配置され、空気の流れを利用して連続的に煉瓦を焼成。火を時計回りに移動させることで、各焼成室は予熱、焼成、冷却の工程を順に経る。一度の窯詰めで乾燥から冷却まで連続して行えるため、従来の煉瓦窯に比べて生産効率が飛躍的に向上した

1階の焼成室では、煉瓦素地を井桁積みにした当時の様子が再現されている
歴史的価値を後世に伝える
煉瓦産業は大正時代の半ばに最盛期を迎えた。近代化の象徴として、大都市を中心に赤煉瓦の建物が立ち並ぶ光景が広がった。ところが、1923(大正12)年9月1日午前11時58分、その栄華は一瞬にして崩れ去った。関東大震災である。神奈川県西部を震源としたマグニチュード7.9の地震は、南関東に大きな被害をもたらし、多くの煉瓦造りの建造物を倒壊させた。野木町煉瓦窯も例外ではなく、2基あったホフマン式輪窯のうち、西窯は完全に倒壊。東窯は躯体(くたい)こそ無事だったが、煙突が途中で真二つに折れた(登窯はすでに消失している)。
「煉瓦は強い」という長年信じられてきた神話は、ものの数分間の激震によって打ち砕かれた。煉瓦造りの建造物の耐震性については、当時の建築界でも意見が分かれた。倒壊した建物の多くは耐震性を考慮しておらず、適切な耐震補強と施工技術があれば、煉瓦造りの建造物は十分に地震に耐え得るという声も少なくなかった。実際、十分な耐震設計が施された日本銀行本店本館(東京都中央区)や三菱一号館(東京都千代田区)は倒壊を免れている。
煉瓦の耐震性に関する議論をよそに、時代の流れはすでに変わり始めていた。施工が容易で経済的な鉄筋コンクリート工法が台頭し、煉瓦の需要は急減。かつて近代日本の象徴として栄華を誇った煉瓦産業は次第に表舞台から退くことになる。
野木町煉瓦窯は1971(昭和46)年を最後に、煉瓦製造を休止した。煉瓦窯に再び炎が灯されることはなかったが、保存活動が起こり、その結果、野木町煉瓦窯は1979(昭和54)年に国の重要文化財に指定された。野木町が施設管理者となり、2011(平成23)年から本格的な保存修理を実施。2016(平成28)年にリニューアルオープンし、一般公開された。
「野木町を含む北関東一帯では、製糸工場や鉄道の橋脚、倉庫など産業発展に関わる建造物に広く煉瓦が使用されていました。当時、コンクリートは高価で中小企業には手が届かず、木材は可燃性が高いため、ほかに適した建材が見当たりませんでした。その点、煉瓦は防火性に優れていただけではなく、形状が統一されているため、設計しやすく、システマティックな建造物の築造を可能にしました。野木町煉瓦窯での煉瓦製造は、地域の産業発展に不可欠で、この窯がなければ、北関東の産業発展は大きく遅れていたはずです」と、同施設の職員は野木町煉瓦窯の価値について語る。
野木町煉瓦窯は、80年以上にわたって、煉瓦製造を通して近隣の産業の発展や、日本の近代化の歩みをこの地で見守ってきた歴史的遺産だ。レトロなイメージが定着した赤煉瓦は過去のものという印象だが、煉瓦焼成室に足を踏み入れると、煉瓦を大量に製造していた頃の躍動感のある工場の姿を容易に想像することができる。ふと外を見ると、季節によって表情を変えるメタセコイアの並木とともに、高くそびえた煉瓦造りの煙突が少しばかり誇らしげに見えてくる。

栃木県小山市の国登録有形文化財である西堀酒造の煙突など、野木町煉瓦窯で製造された煉瓦を使用した建造物が今も残されている

野木町ボランティア支援センター「きらり館」の敷地内にある煉瓦蔵

煉瓦の製造元は刻印で判別できる。野木町煉瓦窯の前身の東輝煉化石製造所製は「T」の刻印(上)を、下野煉化製造会社製は星形の刻印(下)を使用した