コベルコ建設機械ニュース

Vol.249Jul.2020

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

玉川上水[東京都]
首都に寄り添う
上水道

江戸開幕以来、増え続ける人口に伴い高まっていたのが水の需要。
大量の飲料水をどこで確保し、どう市中へ導くか。
その問いの答えが「玉川上水」だった。江戸時代初期の水利技術を今に伝える
貴重な土木遺産にして、現役の水道施設であるこの導水路はいかにして造られ、
どのような恩恵をもたらしたのか。その軌跡に迫る。

4本の橋脚をもつ可動堰とコンクリートを盛り上げてつくった固定堰で多摩川の水をせき止め、第一水門(写真右側)へと引き込む羽村取水堰が玉川上水の起点

江戸の危機を救った多摩川の水

海沿いの低湿地を埋め立てて土地を広げてきた江戸にとって、最大の問題は飲み水の確保だった。井戸を掘っても塩分の強い水が出るため、江戸の町には早くから上水道が整備された。そんな水事情に再び危機が訪れる。

1635年に参勤交代が制度化されると、各藩の大名やその家族、家臣らが江戸に住み始めたことで人口が急増。井之頭池(現・井の頭池/東京都武蔵野市・三鷹市)などを源泉とする神田上水といった既存の上水だけでは水が足りず、新たな水源の開発が急務に。このとき着目されたのが、江戸の北西から現在の東京湾に向かって南東へ流れる多摩川だった。

多摩川の水を江戸へ引き入れる工事が始まったのは1653年4月。8カ月後の同年11月に(閏月で6月が2度あった)、羽村取水口(東京都羽村市)から四谷大木戸(東京都新宿区)に至る総距離約43kmの導水路「玉川上水」が開削された。

水路は側面を土留めしない素掘り。標高差で水を流す仕組みだが、起点から終点までの高低差が92m、これは100m進んでも21cmしか低くならない非常に緩い勾配の水路であった。武蔵野台地の稜線(山の最も高い部分の連なり)からルートを厳選しなければ実現は不可能なうえ、単純計算で1kmを約6日間で掘り進めるという驚異的なスピードで完成していることからも、綿密な計画のもとに工事が行われたことは間違いない。工事を請け負ったのは、土木工事に秀でていたという庄右衛門、清右衛門の兄弟。完成後に褒賞として玉川の姓を賜り、玉川上水の管理と修理を任されている。

四谷大木戸まで引かれた多摩川の水はその後、地下に埋設された石樋や木樋といった配水管を通って江戸の人々のもとへと届けられた。市中への通水が始まった1654年6月をもって玉川上水は完成をみた。

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東京都水道局の「玉川上水概況図」をもとに編集室で作成

現在も機能し続けるライフライン

川が大きく蛇行して水流が弱くなる河口から約54kmの地点、堰を築けば効率よく水を導ける場所に取水口は設けられた。現在、その場所にある羽村取水堰は1911年にコンクリートでつくられた施設だが、取水の仕組みは同じ場所にあった創建時の木製の堰とほぼ変わっていない。

取水の仕組みはシンプルだ。川の中ほどまで伸びる左岸側の可動堰と、コンクリートで築かれた右岸側の固定堰でせき止められた水は、第一水門をくぐり抜ける。次の第二水門でその先の導水路へ流す水量を調節。余分な水は小吐水門から多摩川へ戻される。

可動堰を設けたのには理由がある。固定堰だけでは、水位が上昇した際に水の力が第一水門に集中して決壊する恐れがある。これを防ぐために、堰の機能を一時的に解除して水の勢いを受け流す可動堰を加えた。台風など有事の際には、丸太や束ねた木の枝、砂利など壊しやすい材料でできた堰を払った。そうすることで玉川上水に濁流が流れ込むことを防いだ。自然に抗わない柔軟な発想にもとづく治水技術が、江戸時代から変わらず今日まで受け継がれている。

多摩川から東に広がる広大な武蔵野台地の開発にも、玉川上水は一役買っている。水路が台地の高所を通っていたため、流域へ広く分水することが可能だった。1655年に現在の小平監視所(東京都立川市)付近から野火止用水を分水したのを皮切りに、1791年までの間に33にもおよぶ分水路を設けたことで、水の乏しい台地の隅々にまで水が行き渡った。武蔵野の田園風景の多くは玉川上水があってこそだと知れば、景色の見え方も変わってくるだろう。

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第一水門に引き込まれた水量を調整し、適量を玉川上水の導水路(写真奥)へと流す第二水門

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可動堰は、橋脚の間に鉄の桁を渡して丸太を立て、投渡木(なぎ)と呼ばれる横架材を支える珍しい形式で、投渡(なげわたし)とも呼ばれる

姿や役目は変わっても水の流れは途絶えず

明治維新で江戸が東京に変わっても、玉川上水は変わりなく水を送り続けていたかに見えた。が、水路にふたがされていない開渠(露天掘り)であったうえ、地中の木樋も腐食が進み水質が悪化。東京でコレラが流行したこともあり、浄水場で原水を濾過する近代水道を求める声が強くなった。

1898年に近代水道施設である淀橋浄水場(東京都新宿区)が完成すると、玉川上水から導かれた水はここで浄水処理をされ、都心へ送られるようになった。鉄管による加圧給水が導入され、従来の流れに任せる方法では水を送れなかった高所への配水も可能に。明治の末ごろまでに都心の広い範囲に水が行き渡ることになった。

昭和30年代まで水源の多くを多摩川に依存してきた東京都だったが、高度経済成長と足並みをそろえるように人口増加が加速。またもや新たな水資源の開発に迫られた。今度の水源は東京の北側、利根川水系である。

東京五輪の翌年の1965年から、本格的に利根川からの導水が始まった。時を同じくして淀橋浄水場が廃止されたことで、都心へ多摩川の水を送るという開削以来の玉川上水の役目は終わった。それでも、玉川上水の水は流れ続けた。小平監視所から東村山浄水場(東京都東村山市)へ送られていた水が、引き続き利用されるためだ。羽村取水堰で取水されたこの上流域の水は現在も水道用水として利用されている。

一方、送水が止まった小平監視所より下流は、水路が空堀の状態、あるいは暗渠(地下水路)化され道路や公園になった。都市からせせらぎが消えると今度は、水の流れのある景色を取り戻したいという機運が高まってくる。地域住民の要望は清流復活事業へとつながり、1986年から小平監視所—浅間橋(東京都杉並区)間でオゾン処理を施した再生水の送水を開始。一度は消えた水と緑の空間が蘇った。

思えば、江戸や東京が町として発展する過程を、玉川上水はずっと見守ってきた。「今度は我々が見守る番」と、玉川上水の整備保全を担う東京都水道局はその労に感謝の意を示す。2009年から地元自治体などと連携して計画的に整備保全を進め、貴重な土木施設で国の史跡でもある玉川上水を後世に継承する取り組みを行っている。

あまりに身近すぎるせいで、私たちは水が存在することのありがたさをつい忘れがちだ。しかし、その背景には多くの人々の想いや重ねた苦労があることだけは間違いない。

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四谷大木戸まで導かれた水は地下に張り巡らされた石や木でできた樋(とい)を通って江戸中に配水された。写真は木製の「木樋」(写真提供:東京都水道歴史館)

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1791年頃の羽村の取水口付近(『上水記』第2巻「玉川上水水元絵図並諸枠図」より)。取水口(絵の左下)一帯に配置された水の流れを制するための構造物の位置関係と種類がよく分かる(資料提供:東京都水道歴史館)

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『上水記』の絵図にも描かれている牛枠(うしわく)。三角錐の形に組み合わせた木材に、石を詰めた籠を取り付け川に固定する伝統的な治水装置。水の勢いを和らげて堰を防御した

現役の導水路として活用されている玉川上水の上流部。流れに沿って緑道が整備された場所も多く、自然豊かな環境を創出している

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka