コベルコ建設機械ニュース

Vol.262Nov.2023

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

牛久シャトー[茨城県]
国内醸造史上に燦然と輝く
ワイン王のシャトー

フランスワインの産地ボルドーでは、ブドウの栽培から
ワイン製造まで行う醸造場を「シャトー」と呼ぶ。
そんなシャトーを日本国内に設け、一大産業にしたいと夢を抱いた実業家がいた。
ボルドーによく似たブドウ栽培の適地を探し求めた彼が、
白羽の矢を立てた場所は茨城県牛久市。
この地に今も残る日本初のシャトーを訪ねる。

旧事務室または本館とも呼ばれる1903年に建設された牛久シャトーのシンボル的な建物。シャトー(城)の名にふさわしい華麗で堂々とした佇まいだ

日本初の本格的ワイン醸造場

明治の世になり日本の近代化が急速に進むなか、江戸時代からブドウの産地として知られていた山梨県で政府が主導する日本初のワイン醸造が始まった。ところが、当時の日本人の味覚に合わなかったのか、この事業は頓挫してしまった。一方同じ頃、東京でワインの製造・販売をしていた人物がいた。日本初のバーとされる神谷バーの創業者で実業家の神谷傳兵衛(でんべえ)だ。

1873年、横浜の洋酒醸造場で働いていた17歳の傳兵衛はある日、原因不明の病を患った。見舞いに訪れた醸造場の経営者が、衰弱していた傳兵衛に持参したワインを飲ませると、体力がみるみる回復。すっかり元気になったという。この出来事からワインの滋養効果に興味を抱いた傳兵衛は、ワインづくりを目指すことになる。

1880年に浅草に神谷バーの前身であるにごり酒の一杯売りを開業した傳兵衛は、国内での洋酒の需要が高くなってきたことに目をつけ、翌81年に「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」を発売した。輸入ワインにハチミツや漢方薬を加えて飲みやすくしたもので、これが大人気となり国内に甘口ワインブームが巻き起こった。当時高価だった輸入ワインを日本人向けにアレンジし、「ワイン王」と呼ばれるほどの成功を収めた傳兵衛だったが、より多くの人に飲んでもらえるようにと今度は国内でブドウの栽培からワイン醸造までを一貫して行うことを考えた。

その頃、現在の山梨県甲州市では民間が主体となってワイン醸造が産業化しつつあった。これを知った傳兵衛は山梨のやり方に倣い、ワイン醸造の技術を学ばせるために婿養子の神谷傳蔵(でんぞう)をフランスヘ派遣。自身は国内でブドウ栽培に最適な土地を探し回った。こうして見つけたのが現在の牛久市にあたる茨城県稲敷郡の約120haの原野だった。

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旧貯蔵庫は改装されレストランに。ワインはもちろんのことカジュアルフレンチと、傳兵衛の当初構想にもあった牛久シャトーのクラフトビールを味わえる

一貫体制で大規模生産を実現

いくつかあった候補地のうち、なぜ牛久が選ばれたのか。

神谷傳蔵がブドウ栽培の方法や醸造機械の操作、醸造技術を会得したのは、ワイン醸造が盛んなボルドー地方。そこで2年ほど学んだ傳蔵の知識をもとに、ボルドー産のブドウを育てるのにふさわしい気候や土壌、広い用地、さらにはブドウにつく虫の種類に至るまで調べ上げた結果、最も適していたのが牛久であった。

1898年に神谷葡萄園をオープンさせ、1901年には本格的なワイン醸造場の建築に着手。2年の歳月をかけて03年に牛久醸造場(現在の牛久シャトー)が完成した。本館正面にはボルドーのワイン醸造場につけられる「CHATEAU(シャトー)」の文字が刻まれた。その堂々たる姿は文字通りヨーロッパの城(シャトー)そのものだ。

葡萄園ではフランスから持ち帰ったサンプルをもとにブドウが栽培され、初年度には6000本のメルロー種が植えられた。畑にはトロッコの軌道が敷かれ、収穫した大量のブドウを醸造場まで直接運ぶことができた。さらにこの軌道は、旧国鉄常磐線の牛久駅とも結ばれていて、東京方面へワインを出荷するためにも利用された。牛久にシャトーが設けられたもう一つの理由がこの鉄道を利用できたことだ。浅草を拠点に東京という大市場でワインを販売するために生産地との交通インフラを確保できたことも、牛久が選ばれた理由である。こうしてブドウの栽培からワインの醸造、貯蔵、瓶詰出荷まで一貫した製造工程をもった日本初の本格的なワイン醸造場が誕生した。

傳兵衛の成功について、牛久シャトー(株)社長の川口孝太郎さんは次のように話す。

「ワインづくりにはそれ相応の資金が必要です。お金がないと土地もブドウの苗も製造機器も買えないですし、たとえブドウがつくれたとしても、仕込みの時間が必要なので翌年以降にならないとワインの販売はできません。つまり潤沢な資金がないと事業を継続するのが難しい商売です。その点、傳兵衛は実業家でもあり、香竄葡萄酒の成功で蓄財ができていました。あとはいかに質の良いワインをつくり、評価されるかだけでした」

試行錯誤の末、フランスボルドー仕込みの牛久醸造場のワインは、ヨーロッパの品評会にも出品され数々の名誉ある賞を受賞。国内でも、本来の渋みのある本格ワインが徐々に浸透し、牛久醸造場のワインも評価されるようになった。

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1905年頃の牛久シャトー。周囲にはブドウ畑が広がっていた

復活した日本最初期のワイナリー

ボルドー地方の技術は建物にも用いられた。フランスに現存した醸造場をモデルに建設されたレンガ造りの旧事務室、旧醗酵室、旧貯蔵庫の3棟の建物は、何度か増改築が行われてはいるものの創建当時の姿を今にとどめている。2007年には近代化産業遺産に、08年には国の重要文化財に、20年には、ブドウ栽培から醸造までの工程を確立させることに大きな貢献をした点や、明治時代にワイン醸造を地域の特性を生かして成し遂げた点などが高く評価され、日本遺産に認定されている。

正門の正面に見えるレンガ造り2階建の建物は「旧事務室」。本館とも呼ばれるこの建物は事務所機能を担ったほか、刈り取ったブドウの検量をしたのではないかと推測されている。また、建物内部でベッドなどが見つかっていることから、農夫が寝泊まりする場所としても利用されていたようだ。

旧事務室の1階に開いたアーチ通路の奥にも美しいレンガ造りの建物の姿が見える。この建物は「旧醗酵室」で、現在は神谷傳兵衛記念館として当時のワインづくりの機械や資料などが展示されている。この発酵室までトロッコの軌道が敷かれ、2階部分に設けられた扉から直接ブドウが運び入れられた。2階の広い空間は作業場になっており、フランスから取り寄せた機械を使って枝の部分を取り除き、ブドウ果汁を絞り出し、ホースで1階に置かれた大きな樽の中へと送り込んだ。樽の中で発酵が進んだ液体は小さな樽に移し替えられ、地階で樽貯蔵するほかビン詰め後に貯蔵庫で保管され出荷を待つこととなる。貯蔵に使われた「旧貯蔵室」は現在、レトロで非日常的な雰囲気を味わえるレストランとして利用されている。

醸造場は1914年頃に最盛期を迎えるが、太平洋戦争後の農地改革により、敷地内に広がっていたブドウ畑は小作地として解放され、その後多くは宅地となってしまった。

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ワインの底に溜まる「おり」を除くときに発生するガスをおさめるために瓶を静置する「回転式沈静機」と呼ばあれるフランス製の機械。神谷傳兵衛記念館には、当時のワインづくりに使用した機械類が多数展示されている

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神谷傳兵衛記念館は、かつてワイン醗酵室だった建物。当時のワインづくりの資料などとともに、当時の醸造場に近い姿で再現されている。

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作業場でもあった2階天井には木造トラス構造を採用。柱や間仕切りがない広い空間が確保された

ブドウ栽培とワイン醸造は一度途絶えてしまったが、最近になって大きな変化が起きた。

2019年に牛久シャトーの所有者と牛久市の間で包括連携協定が結ばれ、同施設を運営するために牛久シャトー(株)を設立。同社は、重要文化財施設を維持管理しつつ活用していく役目を担うこととなった。

具体的には、敷地内にまだ残されていた畑のブドウを使い、旧醗酵室内に新たに設けられた現代の醸造設備でワインの生産が復活。2022年からは敷地内のブドウを使ったワインの販売も開始した。「日本最初期のワイナリー」は、令和の世に再び現役のワイナリーとして輝きを見せ始めている。

神谷傳兵衛記念館の1階には、ワインの発酵に使われた大きな樽が並ぶ。現在は横に置かれているが、かつては縦置きで並んでいた。最も古いもので1903年(明治36年)製のものがある

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka