歴史的建造物誕生の秘密を探る!
北海道庁旧本庁舎 [北海道]
北の大地の
歩みを刻む赤れんが
札幌駅や大通公園からほど近い市街地の一角に、赤いれんがの
外壁と八角塔をいただく堂々たる建物がある。
1888(明治21)年に蝦夷地(北海道)の中枢として誕生した
北海道庁旧本庁舎、通称「赤れんが庁舎」だ。
2019(令和元)年から5年余りの大規模改修を経て、2025(令和7)年7月25日、
開拓の記憶を宿したまま新たな役割を担う姿へと生まれ変わった。
この建物が北海道で果たしてきた役割を、あらためてたどってみたい。
行政機能が集まる北3条通の突き当たりに立つ、赤れんがづくりの北海道庁旧本庁舎。赤れんがと八角塔が堂々とした風格を見せる札幌のランドマークだ
行政都市札幌と赤れんが庁舎の誕生
北海道庁旧本庁舎が生まれた背景をたどるには、北海道の成り立ちを知る必要がある。明治新政府が府県制度を整えた際、多くの地域は江戸時代の藩政を基盤に再編されたが、蝦夷地は事情が異なっていた。南西部こそ松前藩が治めていたものの、大半は幕府直轄で、統治を担った箱館奉行所も幕末の動乱で役割を終えたため、近代的な行政組織をゼロから整える必要があった。
そこで1869(明治2)年、旧箱館奉行所の機能を引き継ぐ中央官庁「開拓使」が設置され、このとき初めて「北海道」の名が与えられた。その本拠地として白羽の矢が立ったのが札幌だった。
札幌が選ばれたのは、その地形と位置が行政都市の建設に適していたからだ。防衛上安全な内陸にあり、交通の結節点として早くから機能していたため、行政都市の建設に適した土地だった。豊平川がつくった平坦な石狩平野が広がり、街路や行政施設を計画的に整える上でも恵まれた条件を備えていた。
開拓使は札幌を拠点に市街地の骨格づくりに着手し、1873(明治6)年には木造洋風の「開拓使札幌本庁舎」を建てた。白い下見板張りに寄棟屋根を載せた端正な庁舎を拠点に、道路・港湾・鉄道整備や産業育成、移民政策などが進み、北海道近代化の中心地が形成されていった。
しかし、その歩みは順風満帆とはいかなかった。1879(明治12)年に庁舎は火災で焼失し、1882(明治15)年には開拓使自体が廃止され、札幌・函館・根室の「三県一局」体制が敷かれたが、広大な北海道を三分割する方式はあまりに非効率だった。
1886(明治19)年に三県が統合され北海道庁が設置されると、開発の重点は「開拓」から「拓地殖民」へ移り、道路を基準に土地を整然と区画する政策が本格化した。現在の直線道路や区画はこの時代に形づくられたものである。
そして1888(明治21)年。焼失した旧庁舎の隣地に、赤れんがづくりの「北海道庁本庁舎」が完成する。力強い外観を備えたこの建物こそ、札幌が道都として歩みはじめたことの象徴である。
建物下部の色の濃い部分は「焼き過ぎれんが」。高温で焼成され、密度が高く吸水を抑える特性があるため、基礎まわりや湿気の多い部分を守るために用いられた
2階の「歴史と文化のフロア」には、北海道の遺産をはじめ、道内各地の文化や歴史を紹介する展示室が設けられている
れんが壁に縦穴を開け、鋼棒を挿入して基礎に固定している様子が展示されている
火災から再建へ。姿を変えた本庁舎
赤れんが庁舎の設計を主導したのは、平井晴二郎である。18歳で文部省派遣留学生として渡米し最新の工学・建築技術を学んだ。帰国後は北海道庁土木課に所属し、官庁建築の設計・監理を担った技術者だ。後に鉄道院副総裁として東京駅建設に関わり、建築家の辰野金吾の起用を後押ししたことでも知られる。
平井を中心に日本人が設計した赤れんが庁舎は、八角塔を備えたネオ・バロック様式で、左右対称の構成や装飾性の高い屋根など西洋近代建築の潮流を反映した意匠が随所に見られる。中央部を核に左右へ翼部を広げ、前身の木造庁舎の面影を残しつつ、より本格的な官庁建築に発展させた。
れんがは札幌近郊産が用いられ、庁舎の建設には約250万個のれんがが使われたといわれる。
創建途中の設計変更で追加された八角塔は構造上の不具合が生じ、1895(明治28)年頃に撤去された。外観デザインがなにを手本としたのかは明らかでないが、平井が留学中に見聞したアメリカの公共建築や、当時のパターンブック(建築図案集)を手掛かりにしたとみられている。
しかし、この堂々たる新本庁舎も長く安定していたわけではない。1909(明治42)年1月11日、赤れんが庁舎は火災に見舞われ、11時間におよぶ延焼で内部と屋根をほぼ失った。焼け残った外壁を礎に、1911(明治44)年に庁舎は再建された。再建にあたっては、防火性と耐久性の強化が最優先された。その結果、天井にはメタルシーリングと呼ばれる薄い金属板に立体模様を施した鋼板を採用し、廊下には大鉄扉を備え、窓枠には三枚折り窓を内蔵する二重窓が設けられた。一方で、創建時の象徴だった八角塔や装飾的な屋根は復元されず、屋根は金属板葺きへとあらためられ、全体として意匠が抑えられた姿となった。
この簡素化の背景には、当時の札幌が抱えていた不安定な状況があった。道都とはいえ、当時の札幌は人口も産業も小規模で、行政機能を札幌に置き続けるべきかの議論が絶えなかった。庁舎焼失後は旭川移転論も再燃し、「早急な復旧」が求められ、工事は半年余りで進められたとされる。
窓枠内には防寒対策の二重窓が備わり、内側は収納式の三枚折り窓となっている
木造洋風の開拓使札幌本庁舎
創建された翌年、1889(明治22)年の赤れんが庁舎
火災後に再建され、八角塔がない時代の赤れんが庁舎(1912年頃) 写真提供:北海道大学附属図書館
半世紀を経て挑んだ令和の大改修
赤れんが庁舎にとって次の大きな節目は1968(昭和43)年。道庁機能が新庁舎に移ったことで“旧”本庁舎となり、北海道開拓100年を機に創建時の姿へ復元する方針が示された。翌年には、建物の歴史的価値があらためて評価され、赤れんが庁舎は国の重要文化財に指定されている。復元作業は本格的に進められ、火災で失われた創建時の図面の代わりに、わずかな痕跡や古写真を手掛かりとした検討が重ねられた。とりわけ難航したのが、長く失われていた八角塔や換気塔など屋根意匠の再現である。古写真の拡大や部材寸法の推定といった地道な作業を積み重ね、少しずつ全体像が明らかになっていった。
時代は下り令和へ。昭和の復元から半世紀が経ち、れんが壁や鉄骨の劣化、耐震強度不足が明らかとなり、大規模修理が不可避となった。改修方針は「外観は明治21年創建時」「内部は明治44年再建時」を踏襲するというもの。敷地全体が国の史跡であるため、地下の史跡層を損なわぬよう工事は慎重に進められた。
5年と3カ月におよぶ保存修理と耐震改修を経て、2025(令和7)年3月に工事が完了し、同年7月に赤れんが庁舎はリニューアルオープンを迎えた。新たな建物は、2階を歴史と文化、1階を観光情報と物販・飲食、地階を学びと交流・活動の場とする構成へ生まれ変わり、「行政の建物」から「公共にひらかれた施設」へと大きく役割を広げた。
そんな赤れんが庁舎が北海道の歩みのなかで果たしてきた役割について、長年調査に携わってきた羽深久夫札幌市立大学名誉教授に伺った。
「赤れんが庁舎は、単なる文化財建造物ではありません。ここでは多くの職員が行政を担い、政策を実行し、北海道の都市づくりや産業形成を支えてきました。その背後には、松前藩による地域経営や江戸幕府の統治、さらには幕末期に北方防備にあたった東北諸藩の活動など、長い時間をかけて培われた“北方を支える力”の積み重ねがあります。こうした土台を明治政府、そして後の行政組織が受け継ぎ、北海道の発展へとつなげていきました。赤れんが庁舎は、その長い営みを受け止め、北海道の歩みをけん引してきた象徴的な存在といえます」
北海道の行政、都市計画、産業政策の中心として積み重ねられた時間が、この建物には刻まれている。リニューアル後の姿は、その蓄積を受け継ぎながら、次の時代へ引き渡していくための新たな土台となっている。
令和の大改修で新たに設置されたスロープ。文化財保存のため、建築物への影響が少ない工法が採用されている
令和の大改修によって、制限つきながら八角塔がある屋上バルコニーに出て、北3条通を望めるようになった
創建当初は「風で揺れた」と伝わる八角塔も、現在は厚い金属壁で揺れを抑えている
令和の大改修では、地下の史跡遺構を保護しながら、保存修理・耐震補強・ユニバーサルデザイン化が進められた
改修工事の間、赤れんが庁舎の正面北側には、令和の大改修の内容や建物の歴史を紹介する仮設見学施設が置かれ、保存修理のため一時移設された八角塔の作業を間近で見ることができた
写真提供:北海道
