コベルコ建設機械ニュース

Vol.252May.2021

menu

歴史的建造物誕生の秘密を探る!

川越城本丸御殿と蔵造りの城下町[埼玉県]
お江戸を支えた
御殿の城

江戸情緒を感じさせる蔵造りの建物が数多く残る埼玉県川越市。
観光地としても人気の「小江戸」と呼ばれるレトロな町並みは、ここが城下町として栄えた証だ。
川越城には、全国でも2棟しか残っていない本丸御殿が現存する。
なぜ他の城からは御殿がなくなり、川越城には残されているのか。
小江戸の町並みの成り立ちとともに、真相を解き明かしていく。

明治の廃城令で往時の6分の1の大きさとなってしまったが、本丸御殿が現存する貴重な建築

現存御殿が珍しい理由

全国各所で町のシンボルとして独特の存在感を放っている日本の城だが、後に復元されたものも少なくない。江戸時代またはそれ以前に建てられた現存建築となるとその数はぐっと減る。城の顔ともいえる天守で今日まで残る建物はたったの12棟。政治を行う政庁と城主の住居の役割を兼ねた御殿、なかでも城の主要区域に建てられた本丸御殿に限れば現存するのは2棟のみだ。そのうちの1つが川越城の本丸御殿である。

配置された曲輪(堀や石垣、土塁で区切られた区画)の場所によって本丸御殿、二の丸御殿、三の丸御殿などと呼ばれ、川越城には本丸と二の丸にそれぞれ御殿があった。天守は初めからなく、三層の富士見櫓がその代わりとなった。お城=天守のイメージが強いが、戦のなくなった藩政時代においては、見張台兼武器庫だった天守よりも客人を迎え入れる御殿のほうが重要だった。

川越藩では政務を二の丸御殿で行った。本丸御殿は江戸から鷹狩りに出掛けた際に立ち寄る将軍の宿泊所となるため、普段から使用は控えられていた。三代将軍徳川家光が訪れた後には利用がなかったため、本丸御殿は解体されたようだ。幕末に二の丸御殿が火事で焼失した後に長く更地だった本丸に御殿が建てられた。現存する1848年再建の本丸御殿である。

藩政の中心だった御殿が天守ほど馴染みのない理由は、明治の早い時点でほとんどが取り壊されてしまったからだろう。

藩が所有していた200弱の城はすべて兵部省(後に陸軍省)の財産となり、1873年の廃城令によってどの城を残してどれを壊すかが仕分けられた。軍が主導したため、軍事的に重要性が認められない城の大半は取り壊され、全面的な取り壊しを逃れた城でも兵営地や訓練場所の用地確保のために多くの建物や土塁、石垣が壊された。その後も天災や戦禍で多くが失われている。

廃城令により川越城も大部分が解体されたが、本丸御殿の一部は県の庁舎として使用されることになった。御殿の建物が再利用される決め手となったのは、築年数が20年と比較的浅かったためともいわれている。

大きな唐破風屋根を掲げた正面玄関をくぐり、正面にあるのが三十六畳の大広間だ。来訪者はこの大広間で待機した後、城主の元へ通され謁見した。県庁としての使用が終わると、建物はタバコ工場や武道場を経て、戦後に中学校の仮校舎として使われたが、現在は藩政期の姿に戻り、江戸当時の雰囲気を味わえるようになっている。

photo

城内での会議に使用された三十六畳の大広間(写真提供:川越市立博物館)

photo

大広間の引き戸に描かれた「杉戸絵」は本丸御殿に残る数少ない遺構の1つ(写真提供:川越市立博物館)

photo

天守の代わりとなった富士見櫓の復元イメージ図。現存せず、土台のみが残っている(出典:川越城富士見櫓復元基本設計報告書)

photo

江戸時代初期の江戸市街地や近郊の景観を描いた数少ない史料の1つ『江戸図屏風』には、初期の川越城本丸御殿が描かれている(写真提供:国立歴史民俗博物館)

photo

川越城の堀跡として唯一残る中ノ門堀跡。深さ7m、幅18mの堀で、城の内側と外側で堀の勾配が異なっている

中世河越城から近世川越城へ

川越城の前身は、鎌倉(神奈川県)に本拠を構える扇谷上杉氏が1457年に執事の太田道真に命じて築城した河越城だ。武蔵野台地北東の先端部に築かれたこの城は、三方を低湿地に囲まれた天然の要害。南にあった中世江戸城(太田道真の子の太田道灌が築城)と連携して領国の武蔵国(東京都と埼玉県)を守る防衛線を形成し、周辺の諸勢力に備えた。

江戸時代には、一貫して江戸の北側を防衛する役割を担い、早くから近世城郭への整備が進められた。中世河越城があったとされる本丸と二の丸の外周に複数の曲輪を配し、富士見櫓をはじめ3つの櫓と13の門を備え、城は総面積約32万6,000㎡の規模に拡張された。防御機能は城外にもおよび、城下町の外縁には寺社が配置され戦時には曲輪の代わりになるよう設計された。

また、藩主は大名が世襲するのではなく、代々大老や老中など幕政を担う重臣が務めた。そのことからも幕府がいかに川越城を重視していたかがうかがえる。

開府直後には2万石だった石高も、幕末には最大17万石に。関東が誇る大藩、水戸藩に次ぐ規模である。川越がこれほどの発展を遂げたのは、かつては地方の一城下町に過ぎなかった江戸の大躍進のおかげである。

photo

正面玄関を見上げると、銅板葺の唐破風屋根。金色の葵の御紋が目を引く

photo

本丸と二の丸を合わせた規模だった中世河越城の周りに、複雑に湾曲した形状で曲輪を広げたのが特徴だ(資料提供:川越市立博物館)
※1867(慶応3)年頃の「川越城図」を元に作成された川越城の縄張図を編集部で一部改編

江戸情緒漂う「小江戸」の真実

開府以来の爆発的な人口増加に伴い江戸の町は拡大した。そのために必要な物資がどこからもたらされたかに着目すると、川越の重要性はより明らかになる。

関東平野のほぼ中央という立地から、川越付近には中世から複数の街道が通っていた。もともとが交通の要衝だった所に江戸幕府による街道整備が進み、江戸日本橋を起点とする中山道から途中分岐して川越に至る川越街道が新設。さらに付近を通る新河岸川の舟運も栄え、陸上と河川で江戸と川越を結ぶ物流の大動脈が完成した。建築資材や燃料といった都市インフラに欠かせない物資をはじめ、領内の農産物や特産品などが川越に集まり江戸へと送られた。文化文政期(1804〜30年)に江戸で焼き芋が大流行したとき、周辺で栽培されたサツマイモの供給地としてブームを支えたのが川越だった。サツマイモスイーツが現在も川越を代表する名物であるのはその時の名残だ。

物流の一大拠点として江戸の発展を支えた川越の城下町は今日、県内有数の観光地となっている。土蔵造りの建物が軒を連ねる江戸情緒あふれる景観から「小江戸」の名があるが、建物群は意外にも明治になって建てられたものだ。

もともとの町並みは木造の建物だったが、1893(明治26)年の大火で全体の3分の1が焼失。この難を免れた数少ない建物が土蔵造りの建物だった。これを教訓に川越の商人たちは店舗を火事に強い蔵造りで再建。こうしてかつての城下町は、蔵が建ち並ぶ姿に生まれ変わった。

再建された蔵造り建築の特徴は、防火機能に加え装飾が目立つ点にある。例えば、屋根の最上部には壁のような「箱棟」が立ち、財力を誇示するかのような装飾が施された。防火のために観音開きの扉は分厚く、窓の下の屋根には「目塗台」が備え付けられている。この台は窓の密閉性を高めるために、扉を閉めた後の隙間に土や味噌を塗り込める作業を行うためのもの。非常用の施設ではあるが凝った意匠のものが多く、川越商人の繁栄ぶりを今にとどめている。

宅地化が進んだ現在、本丸御殿以外では空堀や櫓台の跡がわずかに残るのみ。江戸防衛の要だった頃の川越城の姿はすでにないが、落ち着きのなかに凛とした気品を感じる本丸御殿と、たくましい商人たちが残した町並みから、往時の繁栄ぶりに想いを馳せることはできる。

photo

小江戸川越の蔵造りの町並み。黒漆喰の建物が建ち並ぶ姿は、関東大震災以前の江戸日本橋とよく似ているという

photo

小江戸川越のシンボル「時の鐘」。高さ16m、木造三層の現在の鐘楼は1893(明治26)年の大火直後に再建されたもの。今も1日に4回、鐘の音色を響かせている

photo

1913(大正2)年頃の新河岸川の船着場の様子。川越藩の経済を支えた新河岸川の舟運は、1931(昭和6)年まで現役だった(川越市立博物館図録より転載)

photo

屋根の最上部には棟の腐食防止と装飾を兼ねた「箱棟」がのり、観音開きの窓は厚い耐火仕様。窓の下には「目塗台」が設けられるなど、川越の蔵造り建築の特徴がよく表れている

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka