コベルコ建設機械ニュース

Vol.256Apr.2022

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

鎌倉文学館 本館 [神奈川県]
鎌倉文士の息吹伝える
侯爵家の洋館

江ノ島電鉄を由比ヶ浜駅で降り、山側へ約10分。
小高い丘に続くゆるやかな坂道へと歩を進め、
石造りのトンネルを抜けると、木立の中に突如美しい洋館が現れる。
鎌倉ゆかりの文学者の著書や原稿、愛用品といった文学資料の
展示や収集・保存を行う鎌倉文学館だ。
名だたる文学者はなぜ鎌倉を愛し、また洋館はいかにして
文学と結び付いたのか。その理由を確かめに鎌倉を訪れた。

1936(昭和11)年築で国登録有形文化財の鎌倉文学館の本館。地上3階建ての1、2階部分が現在、鎌倉文学館として利用されている

鎌倉に唯一残る旧大名家の別荘建築

高台で堂々たる存在感を示す建物は、ヨーロッパの山小屋を思わせる洋風建築。木柱の骨組みがむき出しになった「ハーフティンバー」を基調とする外壁に、半六角形の張り出し窓や青いスパニッシュ瓦があしらわれているのが印象的だ。その一方で、切妻(きりづま)屋根に深い軒出といった和の要素も見られ、和洋が混在しながらも調和が保たれている。

振り向けば、眼下には相模湾の水平線。晴れた日には伊豆大島まで見渡せる絶景が広がる。

国登録有形文化財の鎌倉文学館本館の建屋は、加賀百万石の藩主で知られる前田家の系譜、旧前田侯爵(こうしゃく)家の別邸として建てられたものだ。

もともとここには長楽寺というお寺があったが、鎌倉時代に廃寺になってから長く荒れ地であった。明治20年代に第15代当主の前田利嗣(としつぐ)がここに別邸として館を構えたことで、この地の時は再び動き出す。

ここから「涛(なみ)」の音が聴こえたのだろう、「聴涛(ちょうとう)山荘」と命名された最初の館は茅葺き屋根を戴く和風建築だった。残念ながら1910(明治43)年に起きた山火事が原因で焼失した。再建された建物も1923(大正12)年の関東大震災で倒壊。この建物がどういう姿だったかは不明だ。震災後に再建された3代目の館は、第16代当主の前田利為(としなり)によって「長楽山荘」と名付けられた。瀟洒(しょうしゃ)な2階建ての洋館だった長楽山荘を全面改築し、1936(昭和11)年に建て直されたのが4代目、現在の鎌倉文学館の本館部分を成す建物だ。

鉄筋コンクリート造りの1階部分の上に木造2階建の2、3階部分を設けたのは、耐震だけではなく高台からの見晴らしも考慮してのことだろう。前田侯爵家の本邸は東京・駒場(東京都目黒区)にあったが、当主の利為は設計に相当な思い入れがあったようで、建築中の現場に何度も足を運んでいたという。

前田侯爵家のほかにも、旧大名家をはじめ政財界や実業界で富を成した人たちが鎌倉に別荘を持ったが、当時の姿をとどめているのは、後に鎌倉文学館となる旧前田侯爵家別邸だけだ。

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源頼朝が鶴を放ったという故事にちなみ、招鶴洞(しょうかくどう)と名付けられた敷地内のトンネル。前田家が使っていた頃は、ここに門が据えられていた

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現在の第一常設展示室は、かつての居間兼客間(曄道永一氏蔵、写真提供:鎌倉文学館)

時の首相に愛された侯爵家の別邸

鎌倉が別荘地として注目されるようになるのは、1889(明治22)年に横須賀線が鎌倉を通るようになってからのこと。明治の世になり外国人御用学者たちの間で、湘南エリアが風光明媚な場所として注目されていたところに、東京方面からの交通の便が良くなり一躍脚光を浴びることに。欧米由来の「別荘・リゾートの思想」にいち早く触れていた富裕層の間で、鎌倉は別荘地、あるいは保養・療養地として利用されることになる。

1871(明治4)年に、岩倉使節団の一員として英国に留学した経験のある第15代当主の前田利嗣も、留学中に別荘・リゾートの文化に触れているはずだ。

第二次世界大戦後、駒場の本邸がGHQに接収されてしまったことで前田侯爵家は鎌倉の別邸に移り住むことになるが、当主のほかにもこの建物に魅了された人物がいた。内閣総理大臣を務めた佐藤栄作だ。4代目の別邸は建物を東西に区切られるつくりになっていて、西半分では家主である前田家が生活し、東半分は佐藤が前田家から借りて週末の別荘として利用した時期があった。現役の首相であった頃、佐藤はこの邸宅に仕事を持ち込むことも、政治家はもちろん役人や実業家を招くこともなかった。ただ、近隣に暮らす文士との付き合いは例外で、なかでもすぐそばに住んでいた川端康成とは、家を行き来する間柄だった。川端康成以外にも、小林秀雄や永井龍男らが食事に招かれたほか、三島由紀夫が小説『春の雪』の取材のためにここを訪れ、作中に登場する鎌倉の別荘のモデルとしてこの邸宅の様子を描いている。

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ベランダの手すり部分や柱に、木部を外側に見えるようにした西洋のハーフティンバー様式を採用。山小屋風に見えるのはこのためだ

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建築当時のステンドグラス

鎌倉へ集まってきた教科書の文豪たち

首都に近い保養地として鎌倉に注目したのは、政財界の大物だけではなかった。明治時代に正岡子規や夏目漱石らが滞在したことで、その後多くの文学者が鎌倉に流れてきた。

最初のグループの1人が高浜虚子(きょし)だ。明治40年代に病弱だった子どもを連れて鎌倉に移り、そのまま定住。このように当初は療養を理由にした移住が多かったが、先住者に誘われてか次第に鎌倉に住む文学者は増えていく。大正時代の中頃には大佛(おさらぎ)次郎や里見弴(とん)、久米正雄らが居を構え、昭和に入ると小林秀雄や川端康成らがこれに加わり、世代や主義を超えたまとまりを形成。やがて「鎌倉文士」と呼ばれるようになり、1936(昭和11)年には鎌倉ペンクラブを結成。鎌倉を舞台にした文化運動へと発展していった。

文学者の鎌倉への流入は、戦争に向かって重工業が盛んになっていた都心の騒がしさも無関係ではない。創作活動に不可欠な静かな環境に身を置くべく、彼らは新たな居住地を求めたのだ。田端(東京都北区)や大森(東京都大田区)など文学者が集まった街は数あれど、東京以外でこれほど多くの著名な文学者に縁がある土地はほかにはない。鎌倉に住んでいた「鎌倉文士」と呼ばれる文学者を含む、鎌倉にゆかりのある文士だけでもざっと340人を数える。それだけに「鎌倉に文学館を設立しよう」という動きが起きたのも自然な流れだろう。

そんな折にたまたま時を同じくして、第17代当主の前田利建(としたつ)から高台の洋館が鎌倉市に寄贈されたのだ。前田家としてもなにかしらに活用してほしいという思いがあったようで、2年をかけて邸宅を改築。1985(昭和60)年に鎌倉文学館として開館した。

文士がこぞって訪れた場所というわけではなかったが、古い洋館の雰囲気と鎌倉の地に根付いた文学の世界観は不思議と相性が良かった。教科書に載るような有名な文士には、鎌倉との縁がある人物も多い。文学に造詣が深くなくても、気軽に立ち寄り楽しめる博物館となっている。

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約600m2に約200種250株のバラが植えられ、春と秋に楽しめる。前田家の別邸時代にもバラ園があったという

本館のある場所は海抜20m。晴れて条件が整うと、伊豆大島も見渡せる。手前に大きな建物がなかった昔は由比ガ浜の砂浜も見えたという

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka