コベルコ建設機械ニュース

Vol.257Aug.2022

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

妻籠宿(つまごしゅく)[長野県]
住む人の意思が守った
木曽路の原風景

御嶽山(おんたけさん)と木曽山脈に挟まれた起伏激しい木曽谷の西南端部、
木曽川の支流・蘭川(あららぎがわ)に沿う家並みがある。
江戸時代に栄えた五街道の1つ、中山道(なかせんどう)六十九次のうち
江戸から数えて42番目が妻籠宿だ。
木曽谷にある宿場町の中でも江戸時代の面影が特に色濃く、
時が止まったかのような佇まいで国内外を問わず人気がある。
1976年に第1号となる国の重要伝統的建造物群保存地区の1つとして選定を受け、
全国の古い町並み保存運動の先駆けとなっている。

明治百年記念事業として最初に保存運動が行われた妻籠宿保存の原点ともいうべき寺下地区の家並み。看板は木製、のぼり旗は出さず、のれんの色は茶か紺で、長さや幅や形に至るまで細かな決まりごとのもとに景観が守られている

交通の要衝にできた木曽谷の新興宿場町

妻籠の名が歴史に登場するのは戦国時代。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍が戦った小牧長久手(こまきながくて)の戦い(1584年)の一環として行われた「妻籠城の戦い」が最初だ。7000の軍勢で押し寄せた徳川方を、羽柴方は300で妻籠城に籠もり防いでいる。 また、関ヶ原の戦いの折、東山道(とうさんどう)(後の中山道)を進むも途中の戦闘で参陣が遅れていた徳川秀忠はこの妻籠城で東軍勝利の報を受けた。1616年に廃城となったため詳細は不明だが、残った城跡から室町中期に築城された堅牢な山城であったことがうかがえる。

大平(おおだいら)峠を越え伊那谷へ抜ける飯田街道と中山道の分岐点であり、飛騨街道へも抜けられたこの地は、木曽谷の南を固めるのに極めて重要だった。かつて主郭のあった山頂(標高519m、比高150m)からは、南側の谷間にある妻籠宿全体を見渡すことができる。

関ヶ原の戦いの勝利により覇権を手にした徳川家康は、戦乱の余燼(よじん)冷めやらぬ1601年に江戸を起点とした基幹道路として五街道を整備した。これら街道は、いつ反旗を翻(ひるがえ)すか分からない地方に割拠する大名のもとへ、いつでも討伐軍を派遣できる軍用道路であったため整備は急がれた。

江戸―京都間を太平洋沿岸ルートで進む東海道に対し、内陸山間を通る約135里(約532Km)の中山道には、69カ所の宿場が設けられた。なかでも、贄川(にえかわ)宿(長野県塩尻市)から木曽谷を通り抜け、馬籠(まごめ)宿(岐阜県中津川市)までの南北約85kmは「木曽路」と呼ばれ11の宿場が置かれた。

宿場町の多くはもともと集落があった場所で整備されたが、妻籠宿は違った。集落の周辺から人を集め、住む場所を割り当て、宿場の機能を持たせた新興の町だった。妻籠城がそこにあった理由と同様に、この場所が交通の要衝だったことが宿場町新設の理由だ。似た境遇の人が集められたため、他の宿場町に多い大店(おおだな)や大地主の御殿のような際立って大きな屋敷がないのが妻籠宿の特徴だ。

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宿場の北端にある水車小屋。左奥に見えるのは、幕府が庶民に対し禁止事項や守るべきことを布告した高札場(復元)

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復元保存工事が始まる前の寺下地区の様子(昭和40年頃)

その姿を今にとどめる中山道の防衛機能

中山道の宿場町には、有事の際に城塞代わりとなる役割も求められた。宿場の出入り口に設けられた「枡形(ますがた)」は、街道からの動線をあえて2度直角に曲げて見通しを悪くする仕組み。敵の行軍を遅らせるだけでなく、進軍に手間取る敵を挟撃することもでき、城郭の大手門などにも採用されている防御設備だ。妻籠宿にも京都方面の宿場の入り口、かつて城の砦だったという場所に枡形が築かれた。枡形は中山道の各宿場町に置かれたが、その後の道路の拡幅工事などによりほとんどが姿を消した。妻籠宿の枡形は当時の姿を今に伝える貴重な遺構である。

一方、東海道の宿場町には枡形は設けられなかった。大井川や天竜川といった橋のない大河川が横切る東海道では、こうした川で行軍を食い止められたため、宿場町に足止め機能をつくる必要がなかった。ただし、旅人もしばしば足止めを余儀なくされたようだ。雨で河川の水かさが増すと渡河できず、運が悪いとそれが2~3日続き、旅程が狂うこともあった。その点中山道は比較的正確な旅程を組めたため、参勤交代はもちろん、数日に渡って執り行われる婚礼の儀式に遅れられない皇族の輿入れにも盛んに利用された。

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敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げた「枡形」の様子が確認できる

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木曽谷の宿場町でよく見られる板葺き石置屋根。板で雨をしのぎ、石の重みで屋根板が風で飛ばされるのを防いだ

妻籠宿は、木曽川の支流蘭川の河岸段丘(かがんだんきゅう)(川に沿ってつくられた階段状の地形)に、細長く南北に軒を連ねる宿場町として整備された。北端の高札場から下町、中町、上町と続き、南端の高台に寺院が置かれ、直下にあった宿場の出入り口には枡形が築かれた。宿場の長さは2町30間(約270m)。宿場が成立した早い時期から桝形の南側に門前町の機能を持った寺下の集落が形成され、 さらに45間(約90m)宿場町は長くなった。宿場の中心であった中町には、身分が高い者の宿泊所である本陣や、本陣に次ぐ補助的宿舎の脇本陣、問屋などが集まった。

幕府が街道を精密に調査した記録『中山道宿村大概帳』によると、1843年の時点で木曽11宿の中では町のサイズは最小ながらも、本陣、脇本陣のほか一般の旅人が利用した旅籠(はたご)が31軒あり、人口が400人を超えるそこそこの規模であったことが分かっている。

「売らず」「貸さず」「こわさず」景観維持の三原則

明治になり、鉄道が主要交通手段に変わってからは多くの宿場町同様、妻籠宿も徐々に衰退。その後もその流れは止まらず、戦後のベビーブームが終わりを迎えようとしていた昭和30年代後半には過疎に拍車がかかり、限界集落の足音がすぐそこまで聞こえ始めていた。もともと田畑を開墾できる土地がほとんどなく、産業もない土地柄。危機感を持った住人が可能性を見いだしたのは観光だった。時代に取り残された過疎の集落には何もないと思われていたが、そこには「江戸から明治にかけての気配」が残っていた。

「自分たちの町並みは観光資源になる」と判断した妻籠宿の住人は、全国でも初めてとなる集落保存に踏み切った。長野県の明治百年記念事業に採択され1968年から70年にかけて、妻籠宿の中でも特に古く、江戸時代の建物も残っていた寺下地区を中心に26戸の解体復原工事を実施。大きく目立っていた看板を取り払い、界隈の宿場でよく見られた出梁(だしばり)造りを復活させ、通りに面したサッシは縦長の竪繁(たてしげ)格子に取り替えると、江戸から明治にかけての木曽路の面影が蘇った。

64年の東京オリンピック以降、日本人は旅の楽しさに目覚め、メディアで魅力的な旅行先が取り上げられることも多くなった。69年頃には空前の妻籠ブームが起こり、旅行者が殺到した。そんな折に、ある資本家から「妻籠をテーマパークにしたいので、旧宿場町をすべて売ってもらえないか」という申し出があった。このできごとに危機感を抱いた妻籠の住人らは、71年の住民大会において住民憲章を制定した。妻籠宿のほか旧中山道沿いの建物や農耕地、山林などの観光資源について、「売らない」「貸さない」「こわさない」の三原則を定め、大手資本に対抗する手立てだけではなく、何においても保存を優先させる自主規範を設けた。たとえ持ち家だったとしても家屋の現状を変えるような改築の場合、統制委員会で審議し、問題があれば改築案を差し戻して改善が求められるという徹底したものであった。

その後も、電柱の移転や旧街道から離れた場所に車庫を設置するなど伝統の町並みを少しずつ整え、維持に努めた。その取り組みが文化庁に評価され、76年に、門前町の京都市産寧(さんねい)坂や武家町の山口県萩市堀内地区など他の6件とともに最初の重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)に選定されている。

木曽谷の小さな集落の「町を守りたい」という想いが、日本最初の町並み保存事業としてクローズアップされたことで、その後各地で同様の運動が続いた。2021年8月2日現在、重伝建地区の件数は43道府県104市町村の計126地区におよんでいる。

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2階の屋根が街道側にせり出す出梁造りと、縦長の竪繁格子を備えた妻籠宿でよく見られる家屋。出梁が連なることで、ささやかながらアーケードを形成した

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江戸時代の建物もいくつかあるが、主に明治から昭和初期にかけての建物が復原されている

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妻籠城跡の山頂から眺めた妻籠宿

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本陣は、明治に入ると取り壊されたが、江戸後期の絵図をもとに1995年に復元された

妻籠宿脇本陣。明治の世になり、木曽檜伐採の禁制が解かれた後、1877年に総檜造りで建て替えられたのが現在の建物

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka