コベルコ建設機械ニュース

Vol.258Nov.2022

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

御堂筋(みどうすじ)[大阪府]
次なる時代を迎える
大阪の大動脈

大阪市を代表する2つの繁華街「梅田」と「難波」をつなぐメインストリート。
沿道には、大阪市庁舎をはじめ、関西を代表する企業や銀行のビル、
百貨店や高級ブランドショップなどが立ち並ぶ。
都市機能を支えるこの大幹線道路は、側道を含め6車線、側道のない場所では
最大8車線が北から南へ向かう一方通行だが、近い将来、通りから車が消え、
全面的に歩行者道路になるという。今、御堂筋に何が起きているのか。

経済と文化活動の中心であり、洗練された景観を併せ持つ大阪の顔と呼ぶにふさわしいメインストリートだ(撮影協力:大阪エクセルホテル東急)

常識を超えた都市計画

多くの楽曲にも歌われていることから、大阪以外の人にも広く知られる「御堂筋」。正式には、国道25号と国道176号のうち阪急前交差点(大阪市北区)から難波西口交差点(大阪市中央区)に至る区間で、その名は愛称として定着した。

16世紀末の大阪城(当時は大坂城)築城以来、大阪では東西の主要動線を「通り」、 南北を通る道を「筋」 と呼んだ。筋に沿って北御堂(浄土真宗本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派難波別院)があったため、「御堂筋」と呼ばれるようになったというのが通説だ。筋は通りに比べ幅の狭い道だったようで、御堂筋も大正時代までは、全長1.3km、幅6mほどの狭い裏道にすぎなかった。

この細道に、延伸・拡幅の計画が持ち上がったのは1921年のこと。人口が増加しつつあった大阪市は、都市インフラに関わるさまざまな問題を解決する計画を進めようとしていた。その1つが、やがて車社会の到来で予測される交通渋滞緩和のための幹線道路の整備だった。この計画を強力に推進したのが、都市計画の権威で後に「大阪の父」と呼ばれる関一(せきはじめ)だ。

1923年に大阪市長に就任した関は、次代の大阪を見据えた「都市大改造計画」を打ち出し、中核をなす事業として御堂筋の拡幅工事を掲げた。

当時、すでに大阪の南北を貫くメインストリートの堺筋があったにもかかわらず、その西側の裏通りにすぎなかった御堂筋に着目したのだ。

工事の内容は、旧国鉄大阪駅前から南海電鉄難波駅前に至る約4.2km、いわゆる梅田と難波の二大ターミナルを結び、道幅を44mに拡幅。さらに道路の下に地下鉄を走らせ、新たな大動脈をつくるというものだった。幅22mの堺筋にさえ車がそれほど走っていない時代に、倍の広さの道路がなぜ必要なのかと市民は訝(いぶか)しんだ。工事計画を聞いた市議会議員からも「飛行場でもつくる気か」とヤジが飛んだという。関市長の構想はそれほどまでに常識では考えられないものだった。

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淀屋橋以南の御堂筋には、4車線道路の両側に緑地帯と側道が設けられている

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梅田から淀屋橋までは側道と緑地帯がなく、6(最大8)車線の道路が続く

次代を見据えたまちづくり

もともとあった道幅を7倍以上に広げ、さらに地下鉄工事を伴う御堂筋の拡幅工事には、莫大な費用が見込まれた。国からの援助も世界恐慌や関東大震災の影響で当てにならない中、沿道の住民には立ち退き料を支払わなければならなかった。この財政難を乗り切るために関市長が考えたのが、受益者負担金の制度だ。新しい御堂筋ができることで沿道の市民がどれだけの恩恵を受けるかを算出し、その額に応じた税金を前もって納めてもらうというものだ。

幾多の困難を克服して1926年に着工。11年もの歳月をかけて1937年5月11日に開通を迎えた御堂筋に、かつての狭い裏道の面影はなかった。

次代を見据えた都市計画は、景観にも配慮されていた。ゆったりとした開放感のある道路に沿って、淀屋橋の南から難波までの間に約800本のイチョウが、大江橋の北から梅田にはプラタナスが植えられた(後にイチョウに変更)。電柱は完全地中化、沿道に建つビルには高さを百尺(約31m)に揃える制限が設けられ、ビルの軒先が規律よく揃う美しい街並みが生まれた。

開通前には、受益者負担金で物議を醸したが、高度経済成長に後押しされ、沿道には金融街が形成され、薬種商や繊維問屋が軒を連ね、関市長の予測通りに御堂筋は大きな経済効果を生み出す大動脈となった。

御堂筋完成から約30年後の昭和40年代には、空前のマイカーブームが到来。広大な道幅を誇る御堂筋でも交通混雑が深刻化した。こうした状況を踏まえ、 1970年の大阪万博を機に他の幹線道路とともに御堂筋は双方向通行から一方通行に切り替わり、ほぼ今の形となった。

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近代大阪を象徴する歴史的景観として2000年に大阪市指定文化財となった「御堂筋銀杏並木」(写真提供:大阪市建設局)

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約130万個のLEDが並木を彩るイルミネーションは冬の風物詩

次なる時代の姿とは

にぎわいに陰りが目立つようになったのは2000年頃。東京への一極集中や金融再編が活発になり、御堂筋沿道のビル1階に空室が増え始めた。もともと淀屋橋から長堀通りまでの間は、金融機関や大企業の本社ビルが集中するエリア。銀行は午後3時に、多くの企業が5時、6時にシャッターを下ろすため、夕方以降の御堂筋からは人気が消えた。

そんな中で、「沿道ににぎわいをもたらすために」と、老朽化が進んでいたビルの建て替え議論も高まり、景観を維持するために長く守られてきた百尺制限にもメスが入った。すでに1995年に、31mだった軒高が50mまで引き上げられていたが、2007年には一部の地区で1階を公共の空間にして、50mの軒高さえ確保できれば、通りから後退した場所に100m超のビルの建設も可能になるなど、なし崩し的に高さ制限が緩和されていった。

ビルの天井が揃って連なる景観は消えつつあるが、50mの軒線は今も維持されている。ビジネス街にも真新しい商業施設が目立つようになり、街には少しずつにぎわいが戻った。そしてにぎわい創出は、次の段階へと向かっている。

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沿道には国内外の有名作家による人体彫刻29体が展示。屋外アートが楽しめる彫刻ストリートでもある

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2022年4月、淀屋橋の商業施設前の歩道上に歩行者の休憩施設「パークレット」を期間限定で設置。にぎわいと憩いの空間を目指す取り組みの一環だ

大阪市は、2019年3月に「車中心」から「人中心」の道へと空間再編を目指す「御堂筋将来ビジョン」を策定した。このビジョンは、2025年の大阪・関西万博までに御堂筋の側道を歩道化。そして次のステップで残った4車線を完全に歩道化するというものだ。かつての関市長の「常識では考えられない構想」にも引けを取らない驚きの計画だ。

このビジョンは、御堂筋をとりまく通行環境の変化に基づいてつくられたものだ。御堂筋の自動車交通量は約40年前に比べ約4~5割減少していて、この傾向は今度も続くと予測される。一方で自転車交通量は約40年前の約6~7倍と増加傾向で、実際、歩行者と自転車が歩道内で接触する事故も多くなっている。御堂筋を歩道化する将来ビジョンは、こうした実情を踏まえたもので、側道を歩行者や自転車の空間に転換する道路空間再編はすでに一部で実現している。

ただ、これまで自動車が通っていた場所を完全に通行止めにするには、いくつもの障壁がある。沿道の商業施設への搬入・搬出や、救急車両の出入りなどは周辺の道路を含めた交通システムの再編が不可欠だ。

全面歩道化計画は、御堂筋の完成100周年である2037年をターゲットイヤーに据え、多方面に耳を傾け調整しながら実現を目指すとしている。

過去には、車を地下に通して歩道化を実現した道路はあるが、世界をみても4kmもの車道を全面歩道化に踏み切った例はない。もし実現すれば、人中心に設計された元メインストリートは世界に2つとないモデルとなり、次の100年も語り継がれる存在となるはずだ。

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2022年4月、淀屋橋の商業施設前の歩道上に歩行者の休憩施設「パークレット」を期間限定で設置。にぎわいと憩いの空間を目指す取り組みの一環だ

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工事が先行していたエリアではすでに側道1車線が、歩道と自転車通行空間に生まれ変わっている(道頓堀川東側)

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2025年までに、難波ー長堀通り間の側道と緑地帯をなくし、歩行者空間化するプランが進行中だ

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ゆくゆくは全車線を廃止して完全歩道化を目指すという

沿道のビルに設けられた百尺(約31m)制限は規制緩和で崩れたが、50mの軒先は今も揃って見えるよう配慮されている

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka