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Vol.259Jan.2023

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

大崎八幡宮[宮城県]
「躍動と静寂」の総鎮守府

慶長12(1607)年に、仙台藩の初代藩主である
伊達政宗が創建した大崎八幡宮。
名の知られた工匠を
何人も仙台に呼び寄せて造らせただけあり、
随所に当時最先端の技術や華麗な装飾が散りばめられている。
東北に桃山文化を花開かせた杜の都・仙台の総鎮守府が、
どのような経緯でこの地に建ったのかをひもといていく。

江戸時代初期の社殿建築の遺構として昭和27(1952)年に国宝に指定された大崎八幡宮の社殿。軒下の柱の上の組物「斗組(ますぐみ)」は、部品の面ごとに配色が異なっており、当時のおおらかな感覚がうかがえる(写真提供:大崎八幡宮)

二つのルーツをもつ八幡宮

米沢(山形県)から岩出山(宮城県大崎市)を経て、仙台に拠点を移した伊達政宗が、居城の仙台城とほぼ同時期に造営したのが大崎八幡宮だ。仙台城からは戌亥(乾(いぬい)=北西)の方角にあることから、後年、特に戌(いぬ)年と亥(いのしし)年生まれの人々に厚く崇敬されてきた。

大崎八幡宮を仙台に勧請した由来を説明した『大崎八幡宮来由記』によると、宮城県大崎市田尻八幡にある「大崎八幡神社」のご神体を遷宮したのが現在の大崎八幡宮である。また、遷宮の際に、旧領の米沢で伊達家が尊崇してきた成島の八幡宮(現在の山形県米沢市広幡町にある成島八幡神社)を合祀(ごうし)したと伝えられている。つまり、戦国時代末期に新しく伊達氏領となった旧大崎氏領の八幡宮と、旧領米沢の八幡宮の二つを仙台で結びつけたのが大崎八幡宮ということになる。

長くこの地域の統治者として君臨してきた大崎氏が厚く崇敬した神社の祀りを受け継ぐことで、伊達氏の新領土の支配に正統性をもたせる狙いがあったと推測されている。

大崎八幡宮がある場所は、仙台を流れる広瀬川が城下へと流れ込むちょうど入り口に当たる丘陵地。作並街道(現在の国道48号)が隣接し、山形方面から城下に入る街道口に当たり、人や物資が出入りする重要な拠点の一つでもあった。後に、大崎八幡宮を中心とした門前町の八幡町が栄え、城下町の発展に寄与している。八幡町の通り名には、仙台城築城の時に石材を切り出した「石切町」や、江戸から来た職人衆が休んだ宿場「江戸町」など旧地名の名残も見られる。

桃山文化の粋を集めた理由

徳川家康を祀る日光東照宮(栃木県日光市)に取り入れられたことから「権現造(ごんげんづくり)」の名称が一般化したが、日光東照宮の創建が元和3(1617)年であるのに対し、それより古い大崎八幡宮の社殿は、ほぼ同じ時期に再建された北野天満宮(京都府京都市)と並ぶ、現存最古の権現造の例である。

権現造は、それぞれ独立した屋根をもつ入母屋造(いりもやづくり)の拝殿と本殿を、相の間(石の間)で連結させた建築様式。上から見ると屋根が「H」の形になって、一つの建物であるかのように見える。大崎八幡宮のように屋内でも本殿と拝殿にそれぞれ軒があれば別々の建物だと分かるが、時代が下るにつれ、天井などで屋内が一体化し区別しにくくなっていく。

大崎八幡宮は、内外ともに総漆塗りで、白色顔料の一つである胡粉(ごふん)の下地に彩色が施され、彫刻や金具で飾り付けられている。拝殿正面には、鶴や鳳凰(ほうおう)、麒麟(きりん)、白虎(びゃっこ)、龍など瑞鳥(ずいちょう)や瑞獣(ずいじゅう)の彫刻が配置され、社殿の威厳を高めている。側面や建物内部には仙人をはじめ、鹿、水鳥、草花などを題材とした彫刻が施された。

『陸奥仙台大崎八幡宮縁起記』という書物に、「およそ花洛の諸堂社といえども、無しや有りや(花の都の京都にさえこのように優れた社殿は存在しないに違いない)」という記述が残されていることからも、相当立派な建物であったようだ。

伊達政宗は大崎八幡宮以外にも、居城である仙台城や菩提寺である瑞巌寺(ずいがんじ)(宮城県松島町)の建設に心血を注いだというが、その狙いとは一体なんだったのか。

京の都から一流の工匠を呼び寄せて、開府間もない仙台の主要な建築物に先端の技術を惜しみなく注ぎ込み、都に見劣りしない建築を領内に出現させることで、京都において流行していた桃山美術の導入を図るとともに、伊達政宗の権力の誇示を図ったのではないかと推測されている。

そして、この仙台の建設ラッシュで並外れた成果を残した人たちがいる。紀州(和歌山県)出身の彫刻職人の刑部左衛門国次(ぎょうぶさえもんくにつぐ)もその一人。後に江戸寛永寺や日光東照宮の豪華な建築を手がけた伝説の名工、左甚五郎(ひだりじんごろう)(架空・実在、諸説あり)のモデルの一人といわれる人物だ。仙台での手腕が評価され、国次は江戸幕府に大棟梁という厚い待遇で迎えられ、以後、数々の名建築を手がけ、名人の名をほしいままにしたという。拝殿の内部にある「にらみ猫」の彫刻は国次特有の彫り物で、後に造営される日光東照宮の「眠り猫」とは作風が共通している。

建築や彫刻に彩色を施したのは、当時の主流であった狩野派の絵師、佐久間(狩野) 左京。仙台城や瑞巌寺でも腕を振るい、代々が仙台藩のお抱え絵師の地位を受け継ぐことになった。

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本殿と拝殿の間に「相の間(石の間)」という通路を設け、棟を掛けて一つの社殿とした。大崎八幡宮のこの様式は、日光東照宮でも採用されている権現造の現存最古の例

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創建時からあるとされる南参道の石段。98段とも100段ともいわれる

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日光東照宮の「眠り猫」とよく似た特徴をもつ大崎八幡宮の「にらみ猫」。ともに刑部左衛門国次が手がけたといわれる

正反対の要素が共存する社殿

ご神体を祀る本殿と参拝者の祈りの場である拝殿、その二つを結ぶ相の間(石の間)の三つの空間から成り立つ社殿の中でも、御簾(みす)で閉ざされた本殿は、豪壮華麗な桃山的な美意識とは対極にある静謐(せいひつ)な精神性を具現化した空間だ。平成12(2000)~16(2004)年に行われた大改修で、このことがはっきりとした新発見があった。神主ですら中に入ることのない本殿内陣が、山水の世界を描いた水墨画で飾られていることが判明したのだ。

「独眼竜」の異名や、大きな三日月を施した兜の前立、朝鮮出兵の際、奇抜な格好をさせた軍勢で京都を出陣したエピソードなどから、大胆かつ華やかなイメージの強い伊達政宗だが、鎌倉時代から続く伊達家は、古くからの信仰や伝統を大切に守ってきた一族。仙台に大崎八幡宮を造営する際、政宗は伊達家の信仰と伝統を大切に守るための決して侵されてはならない神聖な空間には、外部の手を借りずに東北在住の伊達家中の絵師を選び、水墨画を描かせて静寂の世界感をつくり上げた。都の最先端の流行と技術を取り入れた態度とは真逆である。この点について仙台市教育委員会文化財課の川后のぞみさんは次のように話す。

「参拝者が出入りする拝殿内部のような場所では、金地と極彩色による装飾性豊かで躍動的な狩野派の美術が占め、当時の主流として武家社会にもてはやされた都のきらびやかな世界を実感できるようになっています。このように流行と伝統、躍動と静寂といった正反対の二つの要素を共存させていることが大崎八幡宮のユニークな特徴といえます」

もとをたどると、伊達家が祀ってきた旧来の成島の八幡様と、新しく迎えた大崎氏の八幡様という「旧と新」を共存させたことから大崎八幡宮の歴史は始まっているのも面白い。

そして現在、安土桃山時代の文化を今に伝える現存最古の権現造の建造物であるばかりではなく、仙台発展の基礎となった仙台城下の数少ない遺構として、杜の都・仙台のまちを見守り続けている。

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本殿内で発見された水墨画

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令和3(2021)年2月と3月に発生した地震で損傷した箇所の修理工事のため、令和4(2022)年11月末まで仮の拝殿が設けられた

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社殿の前に建ち「門」の役割を果たす建物「長床(ながとこ)」は、彫刻や金具で飾られた社殿とは対照的に控えめで落ち着いた雰囲気の素木(しらき)造。国の重要文化財に指定されている

軒下の色鮮やかな装飾に対し、それより下には「黒」が多く取り入れられた。黒漆の破風(はふ)に金色の二対の鶴を大胆に配置しメリハリを効かせているのは、いかにも桃山文化らしいあしらい(写真提供:大崎八幡宮)

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka