コベルコ建設機械ニュース

Vol.260Apr.2023

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

門司港駅と門司港レトロ[福岡県]
蘇るレトロの要

明治から昭和初期にかけて建築された趣のある
近代建築が数多く残る北九州市の「門司港レトロ」地区。
そのシンボルともいえるのが門司港駅だ。
九州の玄関口にして、海外交易の拠点としてにぎわった
門司港のまさに要。2019(平成31)年に創業当時の
駅舎が復原され、往時の面影を今に漂わせている。

外壁をモルタルで石造り風に仕上げた木造2階建ての駅舎は、左右対称の造りが特徴的なネオ・ルネサンス調の重厚感のあるデザイン

港の繁栄支えた陸海連絡駅

本州と九州を隔てる関門海峡に面した門司港の飛躍は、1889(明治22)年に国の特別輸出港に指定されたことに始まる。当時、主要輸出品だった米、麦、麦粉、石炭、硫黄の輸出量は年々増加し、海外との交易が許されていた開港場までの輸送コストも膨れ上がった。そのため政府はこれら5品目に限り、それぞれの産出地に近い港を特別輸出港に指定し、その港から直接輸出できるようにした。このとき、指定された9港の一つが門司港だ。

流れの速い関門海峡の海流のおかげで大きな船が出入りできる水深があったこと、荷物の積み下ろしができる天然の良港だったことに加え、中国大陸とも比較的距離が近く、なによりも背後に日本一の出炭量を誇る広大な筑豊炭田を控えていたことが、門司港が特別輸出港に選ばれた理由だ。

鉄道も敷設され、1891(明治24)年4月1日、門司港に「門司駅」が開業した。鉄道があれば、本州からの物資を九州各地に輸送でき、また九州の物資を門司から鉄道に載せて本州へ円滑に輸送できるようになる。10年後の1901(明治34)年には対岸に下関駅(当時は馬関駅)ができ、門司駅との間で関門連絡船が就航。本州の鉄道と結ばれたことで、多くの旅客と貨物がこの連絡船を行き来することになった。

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駅から桟橋までの約100mを結んだ「関門連絡船通路」の跡。半地下になっている通路は最盛期には年間880万人もの人が利用した

関門連絡船の利用が活発になると、陸海連絡の利便性から、1914(大正3)年2月に門司駅は約200m海側の現在の位置に移転。このときに新築した駅舎が現在の門司港駅の建物だ。新たな駅舎は海外交易の拠点にふさわしいものにするべく、建物の設計をドイツ人技師に依頼。こうして木造2階建てで、左右対称のデザインが特徴的なネオ・ルネサンス調の駅舎が竣工した。首都の顔でもあった赤レンガの東京駅と同じ年の開業だったことからも、いかに期待されていたかがうかがえる。

新駅舎開業と同じ年の8月に日本が第一次世界大戦に参戦すると、門司港界隈は大戦景気に沸きたった。すでに日清戦争(1894~95年)・日露戦争(1904~05年)のときに軍需品や兵士を送り出していた門司港では、米や兵器、軍服などを扱う商業が目覚ましく発展。この頃には、神戸や横浜と並んで日本三大港の一つにも数えられ、大手金融資本や商社が先を争って門司に進出。地価も暴騰し、門司港は繁栄を極めた。

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海運会社・大阪商船の門司支店として1917(大正6)年に建設された「北九州市旧大阪商船」

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「第一船だまり」周辺に立地する歴史的建造物群。1921(大正10)年に建設された「旧門司三井倶楽部」は社交場だった頃の面影を残す格調高い建物

大動脈から外れ、主役交代

門司港に活気があふれる最中、本州・九州間の輸送効率をさらに高めるため、関門海峡を船に乗り換えることなく移動できる海底トンネルの計画も進められていた。

戦時中の1942(昭和17)年に開通した「関門トンネル」は、地形的な理由から門司駅につなげることができず、接続駅は門司駅から約6km離れた大里駅となった。これを機に、九州の玄関口は門司駅から大里駅へと移り、大里駅は門司駅と改称され、もともとの門司駅は「門司港駅」と名を変えることになった。駅名の変更は、まさに主役の交代劇であった。本州と九州を結ぶルートから外れた門司港駅は、海と陸の結節点としての機能も低下。また、終戦に伴う大陸貿易の急激な縮小や石炭輸送の減少もあって、多くの商社や銀行が門司港から転出するなど、門司港を取り巻く環境は厳しさを増していった。

その後も、1958(昭和33)年に国道の関門トンネルができ、1964(昭和39)年には、門司港駅と下関駅とを往復していた関門連絡船が運航を停止。1973(昭和48)年には高速道路の関門橋が開通するなど交通インフラが変化するにつれ、門司港および門司港駅は物流・交通拠点としての役割を失っていった。

ただ、輝きは完全に失われたわけではなかった。かつて国際貿易港として栄えた門司港には、当時の面影をしのばせる古い建物がいくつも残されていた。

門司港駅もその一つだ。駅名が改称された後も地域の人たちに利用され、管理が行き届いていたこともあり駅舎の保存状態は良く、威風堂々たる佇まいは健在だった。

いつしか官民一体となった門司港駅を重要文化財へと働きかける機運が芽生え、1988(昭和63)年に晴れて鉄道の駅としては全国で初めて国の重要文化財に指定されることとなった。

また、ほぼ同じタイミングで当時の北九州市長が市内各地域の活性化計画「北九州市ルネッサンス構想」を打ち出した。

この構想は、門司港地区に 「レトロ」という再生コンセプトを掲げ、古い街並みと新しい都市機能をミックスさせた都市型観光地の創出をめざすというものだった。レトロな面影を残す歴史的建造物の保存活用、回遊路や観光施設の整備、交通量緩和のためのバイパス建設などが進み、門司港地区は「門司港レトロ」という名を与えられ、1995(平成7)年3月25日から新たな歴史を歩み始めた。

往時をしのばせる古い建築物群のなかでも中核をなし、門司港レトロの玄関口でもあるのが、現役の駅舎として稼働する門司港駅だ。

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九州の鉄道の玄関口だった門司駅(現在の門司港駅)は、関門連絡船により対岸の下関駅(山口県)とつながる重要な拠点駅としてにぎわった。関門トンネル(鉄道)が開通すると、本州から九州への直通列車は門司駅から約6km先の大里駅へ接続。これを機に大里駅は2代目の門司駅となり、もともとの門司駅は「門司港駅」に改称された

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「旧0哩(ゼロマイル)標」は、門司駅開業の際に定められた線路の起点だった場所。駅が現在の門司港駅の位置に移動したことに伴い起点も変更された(撮影協力:九州鉄道記念館)

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現在の門司港駅はJR九州鹿児島本線の起点駅

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大正時代の面影が蘇った1階のコンコース

レトロ地区に蘇った大正時代の姿

老朽化への対応や耐震補強のため、門司港駅は2012(平成24)年から保存修理工事を行うことになった。重要文化財に指定された駅舎ではあったが、建物はこれまで何度も改修されていた。工事に際して、いつの姿に戻すかという「復原」について議論され、検討の結果、創建時の姿へと戻すことを基本方針と定めた。

正面にあった車寄せの庇は1929(昭和4)年に設置されたものなので撤去が決まった。屋根の中央の大時計も、創建4年後の1918(大正7)年に取り付けられたもので本来であれば撤去の対象だったが、九州で初めての電気時計だという歴史的価値からそのまま残されることになった。

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車寄せの庇があった頃の駅舎(2012年頃撮影/写真提供:JR九州)

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保存修理工事により庇は撤去され、創建時の姿が蘇った

約6年の歳月を経た工事は2019(平成31)年に完了し、大正時代の駅舎の姿が蘇った。平屋建ての東⻄棟に挟まれた2階建ての中央棟には天然石板スレートで葺いたマンサード屋根(勾配の角度が途中で変わる屋根)を蘇らせ、失われていた屋根まわりの飾りを古写真などの資料から復原。外壁にはモルタルを塗り、目地を入れることで、木造建築ながら石造り風に仕上げている。中央棟の正⾯の両端を一間分突出させ、その四隅に階を貫く高い柱(ジャイアント・オーダー)を構え、建物に格調を添えた。

現代の構造強度要求に応えるためには、構造の補強も必要だった。駅舎内部には建物をサポートする鉄骨補強やそれを地中で支えるための鋼管杭を設置。補強のための鉄骨は極力目につかない位置に配置するよう配慮し、内外観のイメージを損なわないように細心の注意を払って構造強度を向上させた。

「九州の玄関口にして、海外交易の要」として歴史に登場した門司港駅は、今新たに「門司港レトロの玄関口にして、その構成要素である近代建築群の要」としての価値をまとうこととなった。北九州市屈指の観光地となった門司港レトロには、門司港駅をはじめとする往時をしのばせる古い建物を目当てに、国内外から年間200万人以上もの観光客が訪れている。

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ホームの上屋を支える鉄骨には古レールが再利用されている

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門司港発祥の場所でもある門司港レトロ地区の中心「第一船だまり」の周囲には、海外交易の拠点としてにぎわった頃の歴史的建築物が集まっている

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門司港駅のシンボルとして時を刻んできた大時計は、設置された当時の文字盤に復原された

九州屈指の貿易港として発展した門司港のシンボル「旧門司税関」は1912(明治 45)年の建物

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka