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Vol.261Aug.2023

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

近江商人発祥の町並みと八幡堀[滋賀県]
近江商人を生んだ水の路

滋賀県中部、琵琶湖東岸の近江八幡市。かつての城下町には、
碁盤目状に整備された街並みと、町の発展に欠かせなかった「八幡堀」が残る。
琵琶湖舟運の拠点として町の発展を支えたこの水路は、
やがてこの地から日本各地へと旅立っていく近江商人躍動の原動力となっていく。

水運の動脈として活用され、近江八幡の繁栄を支えた八幡堀。昔ながらの屋形船からも、石垣や白壁の蔵が並ぶ景色を楽しめる

安土の城下町を引き継ぐ

標高271.9mの八幡山の山頂に築かれた八幡山城の城下町として誕生した近江八幡は、東に約5km離れた場所にあった安土城の影響を大きく受けている。1579年に織田信長の命で築かれた安土城は、史上初めて高層建築の天守(安土城では「天主」と表記)をもった城として知られるが、城と町とを一体化させた城下町を初めて設けた城でもあった。課税免除と自由交易を許した有名な楽市楽座の経済政策が行われた安土の城下町には、魅力を感じた商人が集まり大いに賑わった。しかし、城の完成からわずか3年後、本能寺の変で織田信長が討たれると城の中枢部は炎上、灰燼に帰した。

壊滅的な安土の城下町の機能をそのまま受け継ぐこととなったのが八幡山城の城下町(以下、八幡)だった。安土城焼失から3年後の1585年に太閤豊臣秀吉の甥で後に関白となる豊臣秀次が八幡山の頂に築城すると、山麓にあった日牟禮八幡宮の周囲に縦12筋、横5筋の城下町がつくられた。

琵琶湖湖岸の内陸側に生じた内湖と呼ばれる湖沼に面し、港の機能をもった安土の城下町をそのまま活用して安土に城を再建するほうが効率がよさそうだが、織田から豊臣に権力が移ったことを示すためには、安土を廃して別の場所に城を新たに築く必要があった。こうして選ばれた別の場所が八幡だった。

町の発展に欠かせなかったのが八幡堀だ。城を守るために八幡山を囲むように築かれた全長4.75kmの堀で、東は琵琶湖最大の内湖「西の湖」、西は直接琵琶湖につながり、物資を運ぶ運河の役割も果たした。

織田信長は江戸から中山道を通る商人に対し、必ず脇街道の京街道から安土に立ち寄るように規制をかけたが、秀次もこれに倣った。京街道のルートを八幡を通るように変えて町に立ち寄らせ、それに加えて琵琶湖を往来する荷船も必ず寄港させることにした。こうして強制的に人、物、情報を集め、安土同様に楽市楽座を実施して城下を大いに活気づけた。

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八幡広域図
八幡堀の南側には、南北に12筋、東西に5筋の城下町がつくられた。旧城下町のうち新町通りと永原町通り、八幡堀周辺および日牟禮八幡宮境内地は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている

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赤枠拡大地図
八幡伝統的建造物群保存地区(赤色の範囲 )

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豊臣秀次の居城・八幡山城があった八幡山

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八幡山からは西の湖や安土城があった安土山を見渡せる

商人の活躍を支えた八幡堀

秀次の八幡山城在城期間はわずか5年。その後、清須城主を経て、関白に就いた秀次は京都に入り、秀吉の後継者として政務を執るも、若くして悲運の最期を遂げた。これを機に、築城から10年後の1595年に八幡山城は破却されるが、八幡の城下町は秀次が去った後も琵琶湖水運の重要な拠点であり続けた。日本海側から陸路で入ってきた物資は、琵琶湖で船に載せ替えられ、八幡など湖岸の港を経由して、琵琶湖最南端の大津からは再び陸路で京都方面へ送られたほか、淀川で船に積み替えられて大阪へと運ばれた。

長らく物資を運ぶ中継地点として機能してきた八幡だったが、17世紀前半になると、定住した商人たちが自分たちの商品の積出港としての性格も併せ持つようになった。主に畳表や蚊帳といった近江の地場産業を育成し、生産した商品を携えて八幡から江戸をはじめ全国各地へと出向いて流通させた。特に取引規模が大きく、後に北海道開拓にも力を発揮することになる商人は八幡商人と呼ばれた。江戸中期に滋賀県蒲生郡日野で漆器や売薬などの地場産業が盛んになると、これらを行商する日野商人が生まれ、さらに100年ほど後に彦根藩の規制緩和で農民の行商が可能になると、領内から湖東商人と呼ばれる商人が現れた。こうした近江国内に本家を構え、他国で行商や出店を設けて商いをした商人の多くが出店先で「近江屋」の屋号を名乗ったことから、近江商人と総称された。

近江商人の中でも八幡商人がいち早く世に出て行けたのも、琵琶湖と結ばれた八幡堀という運送インフラがいちはやく確立されていたためだ。近江商人の発祥と発展に大きな役割を果たした八幡堀には白壁の土蔵が立ち並び、八幡は江戸時代を通して近江国では大津と並ぶ賑わいを見せた。

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堀の際まで下りて、石畳の通路を歩くことができる

埋め立てを回避した市民運動

昭和初期まで町の流通や経済を支えてきた八幡堀も、人々の生活形態が変わりだした昭和30年代になると、次第に忘れ去られた存在となった。堀にはごみが捨てられ、ホテイアオイが水面を覆い尽くし、ヘドロは堆積するばかりで、水が異臭を放つようになった。昭和40年代になると、八幡堀が再び水運で役立つことはもうないだろうと、地元自治会は不用の堀を埋め立てて駐車場や公園などに改修するよう近江八幡市に陳情した。このとき近江八幡青年会議所は反対の行動を取った。1972年に「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合い言葉に、八幡堀が埋め立てられるのを惜しみ、市民に浚渫と復元を呼びかけた。

毎週日曜日になると青年会議所の会員自ら八幡堀に入り、自主清掃を始めた。汚れは想像以上にひどく、清掃すべき範囲も広大なためなかなか作業ははかどらなかった。ときには清掃活動中にヤジを飛ばされることもあったが、次第に共感する市民が現れ、大規模な清掃活動へと発展した。3年後の1975年には、ついに滋賀県が進みかけていた改修工事の中止を決め、さらに八幡堀の保存運動に端を発した市民運動は町並み保存や景観保存へと展開していくこととなる。

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塀際に外から見えるように植えられた「見越しの松」が通りに風情を添える(新町通り)

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町の名の由来にもなっている日牟禮八幡宮。八幡山の麓に鎮座し、八幡商人の尊崇を集めてきた

1991年には、旧城下町や日牟禮八幡宮周辺の八幡堀などの地域が「近江八幡市八幡」の名で滋賀県下では初めてとなる重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建)に選定された。また2006年には、八幡堀を通じて水路でつながっている西の湖や周辺の景観が「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定されている。近江商人が扱った商品には、屋根の材料やすだれ、衝立などに加工されたこの界隈で採取される葦を原料とするものが多く含まれていた。葦原などの自然環境が、葦産業などを生業とする地域住民の生活と深く結びついて発展した文化的景観である点が評価されたものだ。城下町と水郷は場所が異なり直接的な関わりはないが、景観保存の考え方や意識で共通点が多い。

もし、当初の計画の通り八幡堀が埋め立てられていたとしたら、古い町並みを残そうとする機運は生まれず、重伝建の話もなかったに違いない。

重伝建地区の八幡堀をはじめ新町通りや永原町通りの町並みは、いまでは近江八幡観光のシンボル。秀次が築いた当時とほとんど変わらない姿で私たちの目の前にあるのは、その価値を見誤らなかった先人たちの選択のたまもの。

商売において売り手と買い手が満足するのは当然で、社会に貢献できてこそよい商売だとする「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の考え方を大切にしてきた近江商人の姿とどこか重なって見えるのは気のせいだろうか。

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八幡堀には土蔵や荷降ろしに使った石段が残る

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琵琶湖の原風景を満喫できる「水郷めぐり」。八幡堀めぐりとは趣が異なり、迷路のような葦原の水路を進む

最盛期には土蔵群があったという八幡堀。
今もその名残をそこかしこに見ることができる

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka