コベルコ建設機械ニュース

Vol.241Jul.2018

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

今帰仁城跡[沖縄県]
美ら海臨む兵どもが城の跡

2000年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は全部で9つの遺跡で構成されている。
その1つが今帰仁城跡。美ら(美しい)海を背景に、曲線を伸ばす石垣が、
沖縄の城郭「グスク」の特徴をよく表している。

沖縄県

城からの眺望は良く、今帰仁村全域、伊是名(いぜな)や伊平屋(いへや)の島々、国頭(くにがみ)の山並み、晴れた日には与論島(鹿児島県大島郡)まで眺めることができる

砦とりででもあり、祈りの場でもある
「グスク」とは何か

 鎌倉時代の沖縄では、農村集落を基盤とした按あじ司と呼ばれる小領主たちが勢力拡大をめぐる権力争いを繰り広げていた。その按司が拠点として築いたものが「グスク」である。「城」の字をあてているが、後に戦国大名らが築く城郭とは少し様子が異なる。大きな違いは、ほとんどのグスクに御うたき嶽と呼ばれる祭さいし祀を行う施設があること。沖縄の集落には背後に丘陵地があることが多く、その丘陵地に御嶽が設けられ次第に砦化し、グスクが成立したと考えられている。グスクには砦としての領域とは別に御嶽の領域があり、そこでは先祖への崇拝と祈願が行われ今もなお人々の心の拠り所となっている。ただ、御嶽がなく城壁があるグスクや、
反対に城壁がなく御嶽しかないグスクも存在し、起源や成立過程は今もはっきりしていない。いずれにせよグスクが沖縄を象徴する考古学的遺跡であるとともに、御嶽などの祈りの場が古代宗教の存続を表しているという点が評価され、世界遺産に認定されている。

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城の裏門のあたる志慶真門郭(しじまじょうかく)。本格的な発掘調査が行われ、段々畑のように宅地造成された建物跡がいくつか発見されている

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城の範囲を明確にするために作られたと言われる外郭の石垣。高さ2m程度の石垣が数百メートル蛇行する

武芸絶倫の王が拠よる
難攻不落のグスク

按司たちの抗争によって、按司を束ねる者が生まれ、14世紀には小国家のようなまとまりができた。その位置関係から南なんざん山、中ちゅうざん山、北ほくざん山の3王統が並立する三山鼎ていりつ立の時代である。
 今帰仁城は、沖縄本島北部の政治、経済、文化の中心として機能する北山王の居城であった。標高100mの丘陵地の頂に主郭(本丸)を置き、地形を巧みに生かした郭くるわが主郭を守るように配置された。背後は70m以上ある崖に守られ、城壁も約8mと高く、周囲の山々にも砦を配するなど難攻不落の呼び声高いグスクであった。
 歴代の北山王に攀はんあんち安知という王がいる。積極的な中国(明)への朝ちょうこう貢貿易で富を蓄え、沖縄本島のみならず周辺の島々をも支配下に置き国を繁栄させるも、北山最後の王となる人物である。後の琉球王朝の史書で「武芸絶倫(武道に関する技術が人並み外れて優れている)」の一方で「淫いんぎゃくむどう虐無道(むごたらしく行いがひどい)」と評され、後世の印象は良くない。真偽はともあれ、難攻不落の今帰仁城を構え、武勇に優れたこの王が率いる北山軍は勇猛であった。
 そしてついに攀安知は、最大のライバルである沖縄本島中部を拠点とする中山を攻める決意をする。この知らせに色めき立ったのは北山の按司たち。己の武勇にものを言わせ富をたかる攀安知を日頃から快く思っていなかった彼らは、敵対していた中山王へ「先手を打って北山を攻略すべし」と進言した。
 1416年、約3000人からなる連合軍を組織した中山王の世子の尚しょうはし巴志は北山へ進軍。今帰仁城を攻撃した。しかしさすがは北山軍。昼夜なく攻める中山軍をことごとく撃退する。正攻法では攻略が難しいとみた尚巴志は作戦を変更。計略を用いて城に立て籠る攀安知の腹心を寝返らせることに成功した。攀安知を城外におびき出しているうちに城内に侵入し、ついに今帰仁城を攻略するのである。攀安知は城内の御嶽の前で自刃し、北山は滅亡した。
 以上が言い伝えられている今帰仁城落城の顛末だ。その堅牢さは、後に琉球王国を打ち立てる中山にも評価されたようで、北部地域を治めるために琉球王国から派遣されてくる監守の居城として利用され続けた。1665年に監守が引き上げた後は廃城となるが、城内に残る御嶽はその後も拝所として使われ、祭祀は現在も続いている。

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今帰仁城の正門にあたる平郎門。門の天井は大きな一枚岩を乗せた堅牢な造り

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上空から見ると、斜面をうまく利用して城壁を築いているのがよく分かる
(① 主郭 ② 志慶真門郭 ③ 平郎門 ④ 大隅の城壁 ⑤外郭 ⑥⑦御嶽)

石垣の秘密と王の素顔

 この地に今帰仁城が築かれた起源も、北山の拠点に選ばれた理由も不明だが、要塞に必要不可欠な条件である領内全域を見渡せる眺望は理由の1つだったと考えられる。そしてもう1つの理由と推測されるのが石。グスクは通常、立地する周辺から採石して石垣を築く。多くは数万~数十万年ほど前の新生代に堆積してできた白く軟らかい琉球石灰岩が使われるが、今帰仁城の石垣の色は青みがかっていて同じ石灰岩でも非常に硬い。難攻不落の今帰仁城のイメージにも重なるこの硬い石は、2億5000万年以上前に形成された古生代石灰岩。アンモナイトの化石が入るほど古いこの石は、沖縄で最も古い地層群のここでしか採れない。加工して整えられないため、石垣は割り出した石をそのまま使う野のづらづ面積みで築かれた。1.5kmにわたって波打つように美しく蛇行する石垣が万里の長城を思わせるように、築城技術は中国大陸や朝鮮半島の影響が強く、これを独自に発展させたと考えられている。石垣に限れば、沖縄には本土より100年以上も早く築城技術が導入されている。日本地図では最果てに位置する沖縄だが、見方を変えればアジアの中心。実際、中国や朝鮮半島、東南アジアとの交易を経済的な基盤としていた沖縄には、当時の先端文化が流入していたことは間違いない。
 現在も継続中の発掘調査で分かったのは、今帰仁城が13~17世紀前期の間、4期にわたって段階的に造成されているということ。最初は、削った岩盤に土を盛り、柵を巡らせただけの簡素なものだったが、14世紀前半の第2期から石垣が使われ始め、攀安知の統治時代に相当する第3期に最盛期を迎え、南北350m、東西800m、面積が約4haというほぼ現在と同じ規模となった。沖縄にはグスクと名のつくものだけで300近くが確認されているが、今帰仁城は王府の首里城に匹敵する沖縄最大級のグスクである。
「瓦がまったく出土しないことから、茅葺きか板葺きの建物があったと考えられています。この規模のグスクですから、当然大勢の人が大工事に携わったはずです。はたして淫虐無道なだけの王にそれが成し遂げられるのでしょうか。素顔の攀安知とは王たるカリスマ性に満ちた人物だったのでは、と思いを巡らせてしまいます」と話すのは、今帰仁村教育委員会文化財係長の玉城靖さん。玉城さんの説明によると、今帰仁城の周囲には集落の遺跡もたくさん見つかっているという。有事の際には真っ先に犠牲となる場所だ。敵が攻めてきたとしても、攀安知は城の中に入れて民を守ってくれるような王だった。だからこそ集落の人々も大規模な築城工事に力を注いだのではないか。あながちあり得ない話ではないと、物言わぬ巨大グスクは感じさせてくれる。

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もともとの岩盤の上に、その場で採掘した石を積んで石垣を築いている 

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神が存在、あるいは来訪する御嶽は、城内2カ所にある

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主郭には北山の頃の遺構は残っていないが、監守時代に、首里城(写真)とまったく同じ配置で正殿・北殿・南殿があったことが分かっている

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama / photographs by Katsuaki Tanaka