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Vol.244May.2019

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

吉備津神社[岡山県]
吉備の鬼退治と、比翼の社

岡山市西部、『枕草子』や『古今和歌集』にも登場し、古代祭祀(さいし)の跡が点在する
吉備の中山(なかやま)の中腹に、千木(ちぎ)を掲げた檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が2棟寄り添うように並んでいる。
国宝に指定されている吉備津神社の本殿・拝殿の屋根だ。
二羽の鳥が翼を広げたような姿から「比翼入母屋(ひよくいりもや)造」とも、
唯一無二の独創的な建築様式であることから「吉備津造」とも呼ばれている。

入母屋造の二つの屋根を同じ高さの棟で結び、さらに隣り合う拝殿の屋根をも一つの大きな屋根にまとめた大胆な構造が特徴。1425年の再建以降、一度の解体修理もなく現代にその姿を伝えている

室町再建建築に残る鎌倉時代の流行の痕跡

 神社建築は、柱と柱の間を数えた時に桁行(正面)三間、梁間(側面)二間で社殿を構成するのが基本で、国内の神社本殿の8割がこの形状だ。それに比べ吉備津神社の本殿は、桁行七間(約14.6m)、梁間八間(約17.7m)とかなりの規模。これは国内最大の神社建築である八坂神社本殿(京都市)に次ぐ大きさで、巨大な本殿を持つことで知られる出雲大社(出雲市)の約2倍以上の広さに相当する。しかも本殿と隣り合う拝殿までをも本殿と同じ屋根で覆っているため、さらに大きな印象を受ける。もともと本殿内とは神様の占有空間。人が入ることを考慮していないため、大きな建物である必要はない。
 現存する吉備津神社本殿・拝殿は、室町幕府三代将軍足利義満が天皇の命により約25年の歳月をかけて1425年に再建したもの。それ以前の建物は南北朝時代に焼失している。どんな姿をしていたかは不明だが、本殿・拝殿に多分に取り入れられている大仏様という技術が推測の手掛かりとなる。具体的には、柱と柱の間に貫と呼ばれる水平材を通して構造を堅固にしたほか、屋根を支える木組みの挿肘木を直接柱に挿し込んで屋根の荷重を柱で受け止めるなど、大きな建築物に適した技術が大仏様(P13写真参照)。源平の争乱で焼失した東大寺の復興に尽力した僧侶重源が中国から持ち帰り、鎌倉時代にはよく使われた技術だがその後は衰退。現存する神社建築で大仏様が応用されているのは吉備津神社だけといわれる。なぜ、すたれてしまった鎌倉時代の技術を、室町時代の再建時に採用したのだろうか。考えられる理由は、再建前も大仏様を取り入れていたから。だとするとやはり相当大きな建物だったはずだ。
 重源の著作『南無阿弥陀仏作善集』によると、「本殿を造営中だった吉備津神社に鐘を奉納した」とある(造営中だったのは、南北朝時代に焼失した建物か)。この時、大仏様を日本に持ち帰った当の本人が建築のアドバイスをした可能性は十分にありえる。

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本殿約78坪(約255m²)、拝殿約23坪(約78.5m²)という神社建築では屈指の巨大建築でありながら、軒や回縁に支柱がないため豪壮ながらも軽快な印象を受ける

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建物内部は、周辺から中心に向かうにしたがって、床も天井も高くなっていく

なぜ巨大建築でなければならなかったのか

 もとから大きな建物だったことは推し測れるが、「なぜ大きいのか」は依然謎のままだ。大きさの秘密を建物の内部から検証してみる。
 本殿の内部は、建物中心部に神様が鎮座する三間×二間の内々陣、内々陣の前面に奥行き一間の内陣がある。その周囲を中陣が取り囲み、中陣の前面に向拝のための「朱の壇」を設け、さらに周りを外陣が一周する。つまり、内々陣と内陣を合わせた三間四方の母屋の周りに二重の縁を巡らせているのだ。これは平安貴族が暮らした寝殿造の建物と酷似する。鎌倉時代の後深草院二条が綴ったとされる日記『とはずがたり』にも、旅からの帰途で目にした吉備津神社は「貴族の宮殿風で変わった造りだった」とあり、当時から建物が寝殿造の影響を受けていたことがうかがえる。
 いつ、どういう経緯かは分からないが、吉備津神社は二重の縁をも覆ってしまう大屋根をかけた。当然屋根は大型になる。
「真相は分かりませんが、屋根を二つ並べたのは、もしかすると荷重の問題を解決するためだったのかもしれません。ただ、屋根をどう見せるかについては相当計算しているはずです」とは、吉備津神社で禰宜を務める上西謙介さん。そもそも本殿の立地が「見せる」ことを意識していると話す。
 吉備津神社の本殿のある敷地は、比較的スペースにゆとりがあるのにも関わらず、山側を背にするでもなく、境内の中でも崖に沿った不思議な場所に建っている。この位置は明らかに麓の人々の目を意識したもの。屋根の向きも、大部分が檜皮葺の平面ではなく、きらびやかな装飾が目立つ破風側をあえて外側に向けている。
「ここに吉備津の神様がいらっしゃることをアピールし、行き交う人々に安心感を与えようとしたのだと思います」(上西さん)
 平安時代の文献をひもとくと、吉備津神社の神様はかなり強い神様だったらしい。だからその神威を可視化する意味でも、建物は大きくなければならなかったのではないだろうか。吉備津神社の主祭神は大吉備津彦命。おなじみ「桃太郎」のモデルとなった人物だ。

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本殿から各末社を連絡する廻廊は1579年の再建。地形に沿って曲線を描きながら、360mにわたり真っ直ぐに伸びている

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絵馬に描かれた絵が、桃太郎にゆかりがあることを感じさせる

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湯を張った釜に玄米を振り入れ、釜が鳴る音で吉凶を占う鳴釜(なるかま)神事。大吉備津彦命の夢に現れた温羅の言う通りに、温羅の妻に釜を炊かせると温羅のうめき声がおさまったという伝説に由来する。釜が大きく鳴ると吉、鳴らなければ凶。申し出れば誰でも占ってもらえる

桃太郎伝説のルーツと鬼の正体

 大吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子で、大和朝廷から山陽方面に派遣された将軍として歴史に登場する(諸説あり)。岡山県を中心に西は広島県東部から、東は一説によると兵庫県加古川市あたりにまでおよぶ一大勢力だった吉備国を平定し、この地方に平和と秩序をもたらしたという。
 吉備国平定の際、最後まで大吉備津彦命に抵抗したのが「鬼」にたとえられる温羅の勢力だ。インドから富士山、大山(鳥取県)を経て吉備の国にやって来て、目を狼のように爛々と輝かせ、髪は赤々と燃えるがごとく、身長は一丈四尺(約4.2m)にもおよび腕力は人並み外れて強く、性格は荒々しく凶悪そのもの。多くの人々を苦しめたという悪役のイメージにぴったりのエピソードを持つ。
 吉備の中心地であった吉備中山に本拠を構えた大吉備津彦命と互いに矢を射合い、互角の戦いをするも温羅は捕らえられ首をはねられた。首は後に、吉備津神社の御竈殿の下に埋められたが、死してなおうめき声を放ったという荒唐無稽な話が残る。この温羅成敗の話をベースに、土地で語られる伝承などを吸収して室町時代にまとめられたのが桃太郎の鬼退治の話だ。
 ただ、温羅が本当に鬼のような人物だったのかは疑問が残る。実は百済(かつて朝鮮半島にあった国家)の皇子で、大陸からやってきた製鉄技術者集団を率いていたという説もある。日本神話の世界では、恐ろしい化け物のいる場所には往々にして秘密が隠されているものだ。
「出雲では、八つの頭と八つの尾、真赤な目を持つ八岐大蛇を倒した後、尻尾から出てきたのが天叢雲剣という刀、つまり金属でした。先進技術だった製鉄や製銅技術がそこにあることを知られたくないために、あえて化け物の存在を言い広めたともいわれます。温羅を鬼としたのも、誰かがそこに製鉄技術があることを知られたくなかったためかもしれません」(上西さん)
 万葉集の歌にも登場する「吉備」につく枕詞は「真金吹く」で、金属(主に砂鉄)を溶解して精錬する様子を表している。真偽のほどは不明だが、鉄製農具の備中鍬や備前の刀剣など、この地域は吉備国の頃から鉄に関わっているのは確かだ。
 吉備国を平定した後も大吉備津彦命はこの地に留まり、吉備津神社の境内にあったとされる茅葺宮で暮らし、後の開拓の神様として崇敬されている。
 製鉄を背景とする強国を倒した強い神様のイメージは、一方では童話の主人公へと昇華され、また一方では、ゆかりの地において巨大建築物に投影されたと考えるのは想像力がたくましすぎるだろうか。

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本殿内部。白木の外陣に対し、一段上の中陣の柱は朱漆で塗られ、空間を色で分けている様子が分かる

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柱と柱に「通し貫」を水平に貫通させる大仏様の構造。通した貫の端が雲のような形をしているのが特徴だ

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大仏様では柱に挿した組物「挿肘木(さしひじき)」で軒を支える。吉備津神社本殿の挿肘木は、組物が前方に2段分せり出すため「二手先(ふたてさき)」と呼ばれる

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka