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Vol.245Aug.2019

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

旧新潟税関庁舎[新潟県]
開港の記憶を今に

2019年1月1日に、新潟は開港150年を迎えた。
当時の様子を今に伝える建物が旧新潟税関庁舎だ。
税関施設は、関税事務を行うために幕末の開港五港それぞれに存在したが、
建物が当時のまま現存するのは、唯一新潟のみである。

旧新潟税関庁舎がある場所は創建以来変わっていないが、河岸が埋め立てられたことで信濃川とは100mほど離れてしまった。現在、発掘調査や資料をもとに船から荷を揚げるための石段が再現されているが、この荷揚げ場の位置が当時の河岸にあたる

前身は物流の大動脈・新潟湊みなと繁栄の一方で懸念も

 開港の地、新潟港の場所を確かめようと地図を広げると、意外にも新潟港は二つあった。一つは、新潟市の中心市街地に近い信濃川の河口に。もう一つは、その河口から20kmほど東に離れた場所だ。聞けば、前者は佐渡や北海道を行き来するカーフェリーや国内外の旅客船が発着する海の玄関口として機能する西港区、後者は主に国外のコンテナ貨物を取り扱う東港区で、両方を併せて新潟港と呼ぶという。
 150年前に開港した新潟港は西港区のほうで、なかでも長岡藩領(後に幕府領)だった信濃川の左岸(西岸)側にあった戦国時代以来の新潟湊が前身である。
 今でこそ河口が分かれているが、江戸時代の半ばまでは長野・新潟両県にまたがる日本最長の信濃川と、福島県と栃木県に源流をもつ阿賀野川は河口付近で合流していた。つまり新潟湊は、両河川の流域と外海を結ぶ物流の要衝だった。内陸からは米や木材、炭などが集まり、海からは塩や海産物などが流域に運ばれた。例えば、山陰地方で採れた鉄は日本海から信濃川経由で内陸の三条(新潟県三条市)へ運ばれ、同地の鍛冶職人が金物に加工した。後に世界にその名を知られる金属加工の町も新潟湊が中継する物流の大動脈のおかげで生まれたというわけだ。
 幕府や諸藩の年貢米を積んだ廻米船や、商人の物資を載せて遠距離を航行する廻船の寄港地としても整備され、新潟湊は元禄の頃(1688〜1704年頃)に最盛期を迎えた。ただ、どうしても避けられない欠点もあったと新潟市歴史博物館の学芸員、田嶋悠佑さんは指摘する。
「上流から大量の砂が運ばれてくるため浅瀬ができやすかった河口港の新潟湊には、水深が必要な大型船の入港は限られました。洪水のたびに流路が変わり、それによって生じる浅瀬のせいで船の航行が差し支えることもしばしばあったようです」(田嶋さん)
 川底をさらい、土砂を取り去る浚渫工事ができるまでにはもう少し時代を待たなくてはならず、当時の新潟の人々は例えば、川の水量が減らないように水利をめぐって周辺の農村と争うなどして水位の安定に努めたという。そんな不安定さをもつ河口港ながら新潟は、幕末に開港五港の一つに選ばれるのだ。

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信濃川の河口と西港区。護岸や埋立てで地形は変わっているが、開港時の新潟港は写真左側の左岸部分(◉は旧新潟税関庁舎)

開港五港に選ばれるも一転して訪れた危機

 開国後の貿易のルールを取り決める修好通商条約が、アメリカ・イギリス・オランダ・フランス・ロシアとの間で結ばれ(1858年)、先に開港していた下田と箱館(現在の函館)のうち下田を閉ざし、新たに神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)が開港地に選ばれた。
ただし新潟は確定ではなく、「日本海側に一つ港を開くように」と五カ国が要求したため、幕府が仮に提示した港だった。
 新潟にはさっそく調査のための外国船が来航するが、港としての評価は厳しいものだった。特に問題だったのが水深の浅さ。大型の蒸気船では港に入ることができないため、沖に停泊させて艀での積み下ろしを強いられることに各国は難色を示した。また、入り江もないため、冬季には日本海特有の強い北風と荒波をまともに受けてしまうことで、危険な港だと判断された。各国が幕府に開港場の変更を申し出たため、新潟開港はいったん持ち越しとなる。新潟を推したのは幕府で、諸外国にしてみれば必ずしも開港地が新潟である必要はない。代わりの港として天然の良港として知られる能登半島の七尾港(石川県七尾市)が挙げられたが、幕府はこれを退けた。七尾港は加賀藩領の港。すでに幕府の権威は斜陽に向かい、藩領の湊を取り上げるのは困難だった。その点、新潟は幕府の直轄地で勝手が良かったのだ。
 結局、悪天候の際に寄港できる補助港として佐渡の夷港(両津港)も併せて開港するという条件で、新潟の開港が正式に決定した。すぐに開港に向けての準備が進められたが、途中戊辰戦争が始まって幕府が倒れた影響で、次いで政権を担った明治新政府が新潟港を開港したのは横浜や長崎に遅れること10年、1869年1月1日(明治元年11月19日)のことだった。

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石畳を敷いたアーチ状通路と、外光が差し込む大部屋の内壁はともに白漆喰仕上げ。間取りも創建当時のものが復元されている

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石庫(いしぐら)は、税関に持ち込まれた輸出入貨物を一時的に保管した保税倉庫として使用された。1982年に復元された現在の石庫は、民具などを収めた資料庫として活用されている

貿易不振がもたらした税関庁舎の数奇な運命

 開港後しばらくして、輸出入貨物の取り締まりや税金の徴収などの関税事務を行う運上所、後の新潟税関が完成した(1873年に改称)。開港した港で中心的な役割を果たした運上所(税関)はまさに開港のシンボルとも言える存在で、建物にもそのことがよく表れている。
 木造平屋建ての寄棟造り。屋根に赤瓦を葺き、外壁には漆喰をかまぼこ型に盛り付けたなまこ壁を施し、窓にはベンガラ色に塗装した両開きの鎧戸が備え付けられた。特に目を引いたのが中央の塔屋と白塗りのアーチ状のエントランスだ。それまでの新潟にはなかった西洋の意匠を真似て、日本の大工が日本の建築技術を駆使して造ったいわゆる擬洋風建築である。
「設計者は不明ですが、開港事務を担当する役人の指揮の下、地元の大工の棟梁が中心となって建てられました。外国人に見下されないよう、彼らに見られることを相当意識したと思われる意匠を採用しています」(田嶋さん)
 そんなハイカラな建物を構える新潟港に、開港の1869年に18隻、翌年には20隻の外国船が入港した。主な輸出品はヨーロッパで不足していた蚕卵紙(蚕の卵が産み付けられた紙)で、輸入品は69年にはライフル銃などの武器や毛織物。翌年は武器の代わりに化粧石鹸や白砂糖などが入ってくるが、その後、外国船の入港はパタリと止んだ。理由は、やはり大型船が接岸できず沖への停泊を強いられたことが大きかったようだ。
「結局、外国からほとんど物が入って来ない時代が続き、1966年に新潟税関庁舎はその役目を終えます。ただ、税関がもしにぎわっていたら、増改築などで創建当時の姿は早々に失われていたかもしれません。開港した時と同じ場所、同じ姿で建物が残っているのは、皮肉にも貿易不振のおかげだったといえるのかもしれません」。こう田嶋さんが話すように、旧新潟税関庁舎は開港五港に存在した税関庁舎の中で唯一創建時のまま現存する建物だ。
 貿易は振るわなかったが町は大きく飛躍した。開港以降、「開港場にふさわしいまちづくり」が加速したのだ。幕末の時点ですでに人口約3万人という越後第一の都市だったこともあるが、開港場であったため新潟市には県庁が置かれた。政治都市としての性格も加わり、悲願だった港の近代化も段階的に進められた。そして、現在、二港区におよぶ国際貿易港となったのは冒頭の通りだ。
 かつて新潟随一の高さを誇った約15mの塔屋も、今では周囲の高い建物に埋もれている。その姿に、本来の役割を十分に果たせなかった肩身の狭さを感じなくもない。それでも開港から今日まで変わりゆく港町の風景を、港を行き来する船を、150年間にわたり、見守り続けてきた。新潟市の人たちが、この建物を「港町新潟の原風景」と誇りに思う気持ちも理解できるだろう。

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船の発着の確認や、密輸がないように入国船を見張った塔屋。約15mの高さは当時新潟随一を誇った

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なまこ壁ときんちゃく型のガラス窓。地元の大工が西洋建築を見よう見まねで造った擬洋風建築と言われるが、随所に伝統的な和の意匠も見られる

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開港当時の運上所の様子。絵の右下に塔屋を掲げた西洋風の庁舎と石庫が確認できる(「新斥税館之図」勝川九斎/筆 明治2〈1869〉年 新潟県立図書館蔵)

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移築された歴史的建造物が集う新潟市歴史博物館「みなとぴあ」の敷地内で、往時の姿を伝える旧新潟税関庁舎

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開港五港のうち唯一、当時のままの姿を残す旧新潟税関庁舎は、1969年に国の重要文化財に指定された

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka