コベルコ建設機械ニュース

Vol.247Jan.2020

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

小岩井農場[岩手県]
農場の時代をつなぐ、
赤い屋根

盛岡市から北西へ約12km。
岩手山の南麓、雫石(しずくいし)町と滝沢市におよぶ約3,000haの敷地には
明治末期から昭和初期にかけての建築物が点在する。
2017年、このうち21棟が近代農業の発展過程を示す例として国の重要文化財に指定された。
小岩井農場の建築物が、雨風にさらされながらも今日まで残されてきた秘密を探る。

小岩井農場で初めて酪農が行われた上丸牛舎エリアには、9棟の重要文化財建造物が集中。赤い屋根の建物が牧草の緑に溶け込み、晴れていれば岩手山の雄姿を眺望できる

不毛の荒野に見出された夢

小岩井農場の成り立ちは、ある人物の自責の念に始まっている。その人物とは子爵(ししゃく)の井上勝(まさる)。幕末に、伊藤博文や井上馨(かおる)らとともに長州藩から派遣されてヨーロッパへ秘密留学した、いわゆる「長州ファイブ」の一人で、後に鉄道庁の長官となった人物だ。

東北本線が盛岡まで延伸することになり、その工事の視察のため1888年に井上は岩手を訪れていた。県知事の案内で岩手山の中腹にある温泉地へ向かう道すがら、運命の地に出合う。その場所は、岩手山の南麓に広がる、見渡す限りの荒地であった。

鉄道庁長官として鉄道を敷設するたびに、多くの田畑をつぶしてきた井上は「いつかその分の埋め合わせをしなければならない」という強い想いを胸に抱いていた。そのため、目の前の荒地を農地に変えたいという衝動にかられても不思議はなかった。

ちょうどこの頃、日本の人口は爆発的に増えており、農業による食糧増産は時勢にもかなっていた。農業の知識は持ち合わせていなかったが、井上は仲間に想いを打ち明け協力を仰ぐと、土地の払い下げを受けて1891年に農場を開いた。共同創始者は、保証人になってくれた日本鉄道の副社長の小野義眞(ぎしん)と、出資者で三菱財閥二代目総帥の岩崎彌之助(やのすけ)。この二人と農場主の井上の名字から一字ずつ取り、農場には「小岩井」の名が冠された。

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1901年頃の小岩井農場。創業から10年近くは経っているのに木がまったく生えていないのが分かる。経営は井上勝から岩崎久彌に移り、この後、本格的に植林が進められる(写真提供:小岩井農場)

農作物の生産から畜産へ移行し発展

農場を開いたものの、経営は困難を極めた。荒地は水はけの悪い湿地だったことに加え、吹きさらす冷たい風が作物の生育を妨げた。輸出品として好調だった生糸生産や漆器を念頭に、養蚕用の桑や漆の木を植えてみたものの、やはりうまくいかなかった。

井上のように、政財界の大物が私財を投じて大規模農場の経営に乗り出すことは珍しくはない時代。例えば、栃木県那須塩原市の千本松牧場は明治時代に内閣総理大臣を二度務めた松方正義が開いた農場をルーツに持つ。こうした農場は、先祖代々伝わる郊外の領地に農地を開いていたイギリス貴族に倣ったものだが、千本松牧場のように後世まで残るものはまれだった。

そもそも元武士階級が農場をうまく経営できるはずもなく、運良く軌道に乗った農場もあったが、戦後のGHQによる農地解放の対象となり、強制的に取り上げられてしまったものも少なくなかった。農場に訪れたこうした危機を、小岩井農場はなぜ乗り切ることができたのだろうか。

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上丸牛舎エリアには明治末期から昭和初期に建てられた重要文化財の牛舎が5棟あり、すべてが現役。このエリアだけで現在、約150頭の牛を飼育している

実は、8年の苦闘もむなしく井上は農場経営から手を引いていて、小岩井農場の経営は1899年から出資者の岩崎家に引き継がれていたのだ。この時岩崎家を率いていたのは、創業者岩崎彌太郎(やたろう)の長男で三代目総帥の岩崎久彌(ひさや)である。

岩崎久彌の手腕により、昭和初期には独立採算が取れるようになった小岩井農場は1938年に株式会社化。岩崎の個人の所有物には該当しないとしてGHQからの農地の取り上げも1000haだけで済んだ。残りの3000haでの生産活動は認められ、創業時からの建物も取り壊しを免れた。

経営が岩崎の手に移ってから最も変わったのは「畜産を軸とした経営に移行したこと」と、小岩井農場資料館の館長を務める野沢裕美さんは話す。「牧草なら荒地で育てることができました。井上のように農産物を作ることにこだわっていたら、もっと早くに小岩井農場はなくなっていたはずです」

井上が抱いた農業による食糧増産の夢は、岩崎の元で畜産振興へと形を変え、日本の酪農の発展に寄与していくこととなる。

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搾乳用の牛が暮らす一号牛舎では、見学用の窓から中の様子を見ることができる

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建築年代の違う5棟の牛舎はいずれも2階部分が倉庫で、屋根に換気塔があるのが特徴

今あるものを活かして使う

農場の経営が拡大すると、それに伴い従業員も増えていった。昭和30年代には、何百人もの従業員とその家族が暮らすようになっていた。社宅はもちろん保育園や小学校まであり、会社の玄関口である本部事務所は従業員の生活をサポートする役割も担った。牧場の業務に必要な建物とともに、働く人々の生活を支える建物も次々にでき、小岩井農場は「酪農タウン」の様相を呈していった。

なかには役目を終えたものもあるが、こうした建物のなかでも特に価値があると認められたのが21棟の重要文化財建築物だ。牛舎や貯蔵用の発酵飼料を作るサイロ、飼料の貯蔵庫など酪農に欠かせないものから、事務所や倉庫、来客用の宿泊施設といったものも含まれる。建物それぞれの具体的なモデルとなった建物は不明だが、大久保利通がヨーロッパの牧場を真似て造った千葉県の御料(ごりょう)牧場から技術者を招き、地元の大工が西洋建築をヒントに施工している。

21棟のうち9棟の重要文化財が集中する上丸(かみまる)牛舎エリアを訪れた。ここは小岩井農場で最初に酪農が行われた場所。現役で使われている牛舎では日本最古の1908年にできた牛舎が2棟と、1934年、35年製の牛舎がそれぞれ1棟ずつ稼働している。これほど古い牛舎が現役で使用できている理由の一つが、岩崎久彌のこのひとこと。

「30年後にも恥ずかしくない牛舎を造りなさい」

牛舎に大型の機械を入れる際、機械が入らないことを理由に牛舎を建て替えることがある。だが、岩崎の言葉に従った小岩井農場は、牛舎が最初から大型。後に大型機械が入っても壊す必要がなかった。30年どころか100年を大きく超えて今に至っている。

理由の二つ目は、敷地の広さだ。昭和初期まではこの上丸牛舎エリアだけですべての牛を飼育していたが、頭数を増やすことになった際、広大な敷地のおかげで別の場所に牛舎を新設。ここでもやはり壊す必要がなかった。牛舎に限らず小岩井農場では、新しいものを作る時は、別の場所に作ることが多いのだそうだ。

「壊して建て直すのではなく、今あるものを活かして使う姿勢が徹底しているのは、『農場主である岩崎がつくったものは特別なもの』という意識が昔の従業員の間にあったのかも。作ったものを大事にするという気風が現在も続いているのは確かです」(野沢さん)

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四階倉庫(1916年建設)は、その名の通り木造4階建ての巨大な作業場兼貯蔵庫。内部にはエレベーターが設置されている

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木造平屋建・寄棟造で屋根に望楼が付いた本部事務所。小岩井農場の中枢を担う施設で、今も現役の事務所として活躍中

建てられた時代がまちまちながらも、建物にどこか統一感があるのは「屋根は赤くする」というルールを徹底しているため。建物が「見られる」ことに相当気を配っている証拠だ。

緑の牧草に洋風建築が立ち並ぶ牧歌的な雰囲気に魅力を感じた一人に宮沢賢治がいる。岩手県花巻市生まれの賢治の作品にはたびたび小岩井農場の描写が登場する。大正時代、小岩井農場へよく足を運んでいたが、まだ有名人ではなかった賢治の名は農場の記録にはない。賢治に限らず牧場の風景に魅了される人はいて、いつしか自然発生的に見物客が集まるようになっていた。「こうした動きに合わせて昭和40年代に、小岩井農場では農業観光の事業化を考えました。古い牛舎やサイロは観光コンテンツの一つとしてとらえられ、上丸牛舎エリアの建物群は使い続けながら保護をしていくことになります」(野沢さん)

観光を目的に保護された9棟に対し、残りの12棟は今日まで日常で使われてきた建物だ。小岩井農場には、この21棟以外にも未だに使われ続ける古くからの建物が多く存在する。赤い屋根の下には、作ったものを大切に使う気風が確かに存在している。

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牛の飼料となるトウモロコシの乾燥・貯蔵用の小屋。最大12棟あったうち4棟が現存(写真は最も古い明治末期頃のもの)。斜めの柱に沿ってルーバー状の壁が付き、雨が当たらない構造となっている

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レンガ造の一号サイロ(左)と二号サイロ。サイロは貯蔵用の発酵飼料「サイレージ」を作る施設。それぞれ1907年、08年に建設されていて、一号サイロは現存する日本最古のサイロといわれる

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka