コベルコ建設機械ニュース

Vol.253Aug.2021

menu

歴史的建造物誕生の秘密を探る!

熊野古道 伊勢路 [三重県・和歌山県]
「よみがえり」の熊野古道

2004年7月7日、世界遺産リスト(文化遺産)に登録された
「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素の一つが熊野古道。
霊場の一つである熊野三山につながるこの参詣道にはいくつかのルートがある。
なかでも美しい石畳や石段が残り、江戸時代の庶民が多く歩いた
「伊勢路」に焦点を絞り、その成り立ちに目を向けてみる。

尾鷲ヒノキの美林とシダが生い茂る景色に溶け込む石畳の道(馬越峠)

人はなぜ熊野三山を目指したか

江戸時代、庶民の旅行は禁じられていた。にもかかわらず、街道を行く旅人の姿は珍しくなかった。実は例外があり、「療養のため」あるいは「信仰のため」という理由であれば旅は認められた。有名な温泉や神社仏閣は格好の旅行先となり、なかでも伊勢神宮は江戸時代を通して屈指の人気を誇った。

伊勢を満喫した旅人のほとんどが奈良・京都方面へ向かうのがおきまりだったが、約1割はさらに南を目指した。目的地は熊野三山。熊野本宮大社(和歌山県田辺市)、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)、熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)の3つの神社の総称で、紀伊山地の霊場の一つに数えられる。伊勢からのその参詣道を「伊勢路」といった。

伊勢神宮から海沿いの熊野速玉大社までの約170㎞を4泊5日で踏破するのが一般的だった。途中の集落には娯楽はなく、参詣者は伊勢で見かける物見遊山の人とはだいぶ様子が異なった。山が連なり険しい道のりも多く、行き倒れる人も少なくなかった。そうまでして人はなぜ熊野三山を目指したのだろうか。

理由は大きく二つある。その一つは、3つの神社すべてを参詣する「熊野詣」だ。京の都から見て、南方はるか彼方の紀伊山地のさらに奥にある熊野三山は、極楽浄土と重なった。三山を詣で、帰ってくることが死からの再生を想起させたことから、熊野三山は「よみがえり」の地として知られていた。平安時代中期から鎌倉時代にかけて法皇や上皇の熊野御幸が相次ぎ、その後武士や庶民にも広まった。生まれ変わってでも苦しみから逃れ、救われたいと願う参詣者は後を絶たなかったという。

もう一つの理由は、三山の一つである那智山青岸渡寺(明治初期に熊野那智大社と分離)が西国三十三所巡礼の第一番札所、つまりスタート地点だったためである。2府5県に点在する33の札所(寺院)を順にお参りしていく総距離約1,000㎞におよぶ観音供養の旅を、熊野詣と兼ねる人が多く、江戸時代には最盛期を迎えた。

photo

伊勢路、紀伊路、中辺路、大辺路以外にも、紀伊山地の二つの霊場「高野山(和歌山県)」と熊野三山を結ぶ「小辺路(こへち)」や、同じく霊場の「吉野・大峯(奈良県)」と熊野三山を結んだ修験者の道「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」があり、6つのルートすべてを熊野古道と呼ぶ

photo

石積みの断面を真横から観察できる松本峠の石段。うまく組み合わせられた石が何層にも積まれている

photo
photo

石畳の道には水が道を横切るよう所々に排水の仕組みが設けられている

photo

石と石の隙間がなく、大きさが均等にそろった手前の敷石は明治時代のもの。三石さんが立つ先には、伊勢路の石段が埋もれている(松本峠)

美しく強靱な石畳の秘密

伊勢路のほかにも熊野参詣のルートはある。紀伊半島の西岸を進む「紀伊路」。紀伊田辺(和歌山県田辺市)から東の山中へ向かう「中辺路」、東へ向かわず海岸線を南下する「大辺路」など、6つのルートを総称して「熊野古道」と呼んだ。

熊野古道のほかの道と比べ、伊勢路には美しい石畳や石段が目立つ。特に観光客に人気のある馬越峠(三重県紀北町〜尾鷲市)には大小さまざまな自然石が敷き詰められ、周囲の景色に溶け込んでいる。急な傾斜も多いが、石段を設けずあえてスロープ状にしたのは、この道が山から切り出した木の運搬にも使われたため。この界隈では昔から林業が盛んで、馬越峠の背後には、標高1,695mの大台ヶ原山を筆頭に1,000m級の山々が連なり、当地の特産品である尾鷲ヒノキの人工林が広がっている。

その山々に海からの湿った空気がぶつかり、尾鷲地方には年間で平均3,800mmを超える大量の雨が降る。そんな日本有数の多雨地帯にあって、山道を守ってきたのがこの石畳だ。面白いことに、雨量がそれほど多くない紀伊半島の西側の紀伊路や中辺路には石畳や石段は少なく、大部分が土の道である。

本格的に敷石の道を整備したのは江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗。紀州藩の5代藩主でもあった。周囲から切り出した石を地形に合わせて敷いただけではなく、雨による増水で崩れないように敷石の下にも気を配った。馬越峠では道をU字状に2〜3m掘り、その溝に何層にも石を敷き詰めている。

2004年の台風21号によって、三重県中南部に多量の降雨がもたらされた際、その強度は証明された。9月の月間降雨量をはるかに上回る観測史上最も多い雨量を記録したこの台風により、洪水や土石流、斜面崩壊が多発。この時、災害救助活動で大いに役に立ったのが馬越峠の石畳の道だった。1968年に国道42号が開通してからというもの、それまで主要な生活道だった石畳の道はほとんど忘れ去られていたが、その国道42号が水害で決壊すると、この水害でもびくともしなかった石畳の道は唯一の交通インフラとして機能した。あらためて地元の人たちにとって大切な道だということを再認識した出来事だった。

photo

『日本書紀』にも登場する日本最古の神社「花の窟」は、熊野三山信仰に先立つ古代からの聖地

photo

美しい曲線の七里御浜の海岸。花の窟(いわや)など世界遺産の構成要素も多い。海岸線の先に熊野速玉大社、山の向こうに熊野那智大社が鎮座する

道は使われてこそ道

馬越峠と並んで人気のある松本峠(三重県熊野市)では、谷に沿って100mほどの石段が続き、石積みの断面を真横から観察することができる。登り口の説明板には「西国三十三所巡礼の観音道が登りの途中で伊勢路と合流している」とあったが、道が交わる場所は見当たらない。熊野市文化財専門委員長の三石学さんによると、この石段が観音道だという。それでは伊勢路はどこにあるのか。

「人が歩かなくなった道は30年もすればこのように埋もれてしまいます」と、三石さんが指さす方向に目を向けると、獣道のような道ならぬ道を覆う落ち葉の下に石畳が見えた。かつての参詣道であり、地域の人々の生活道だった伊勢路の現在の姿だ。

熊野市内に限らず、伊勢路には今も土中に埋もれている場所があるという。草や土の下に隠れ、誰もが思い出すこともなくなったかつての道を「宝物」と捉え、自主的に発掘してきたのが三石さんだ。出勤前と仕事の後に毎日約2mずつ掘り、15年かけて掘り起こした伊勢路の一部は後に世界遺産に登録されている。こうした動きが各所で起きてかつての道が日の目を見ると、世界遺産登録への気運は一気に高まった。

「掘り始めた時には、世界遺産のことは頭にありませんでしたが、あらためて『道は使われてこそ道』ということを実感しました」(三石さん)

かつて熊野三山は「よみがえり」の地であった。生まれ変わりたいと願う人たちがそこへ向かうことで、各地域の小さな生活道は1本の“祈りの道”としてつながっていった。今日、参詣者は観光客に変わったが、“よみがえった”熊野古道は年間30万人以上が訪れる道として、新たな歴史を刻み始めている。

photo

熊野那智大社別宮 飛瀧(ひろう)神社の御神体「那智の滝」

photo

熊野本宮大社本殿(和歌山県田辺市)

photo

熊野那智大社本殿(和歌山県那智勝浦町)

photo

熊野速玉大社本殿(和歌山県新宮市)

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka