コベルコ建設機械ニュース

Vol.254Nov.2021

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

四万十川の沈下橋 [高知県]
自然と折り合い、
景色に溶け込む沈下橋

全長196kmにおよぶ四国最長の大河・四万十川には、
増水時に水面下に沈むように設計された欄干のない「沈下橋(ちんかばし)」という名の橋が点在する。
無駄がそぎ落とされ、必要最低限の役割を果たすシンプルな姿のせいもあって、
元からその場にあったかのように、緑濃い風景になじんでいる。
沈下橋はなぜ四万十川に誕生したのか、その起源を追う。

修復跡が真新しい岩間沈下橋。2017年11月に橋桁の腐食が原因で床版がVの字に折れ曲がり通行止めとなっていたが、21年4月27日に全面復旧した

水中に沈めばすべて沈下橋か

増水時に水中に没するタイプの橋は、実は四万十川特有のものではなく「潜水橋(せんすいきょう)」や「もぐり橋」「沈み橋」といった名称で他の地域でも見られるものだ。

1999年に高知県四万十川流域振興室が全国の一級河川を対象に行ったアンケート調査によると、あらかじめ水中に沈むようにつくられた橋は全国に410カ所現存していることが分かった。一番多かったのが高知県で69カ所、次いで大分県が68カ所、以下、徳島県56カ所、宮崎県42カ所と続く。

では、四万十川には沈下橋はいくつ存在するのか。欄干のない形状を指してそう呼ぶ人もいれば、水中に沈むものだけが該当するという意見もあり、解釈はさまざま。実は沈下橋の定義がはっきりと定められていないため、山深い支流にある私用で架けたようなものも含めると、流域に120近くがあるようだ。一つの目安になるのが、沈下橋を今後も保存し続けていくために高知県が定めた保存対象の基準だ。護岸よりも低い位置にあり、潜水しても抵抗が少ない形状をしているもの。そのなかでも道路台帳、農道台帳および林道台帳に記載されているものだけを保存対象とする、と定めている。つまり、公に道路と認められている場所に架けられたもの以外は沈下橋として保存しない、ということだ。この線引きで保存対象となる沈下橋は、四万十川の本流と支流に48橋ある。一般的に高知県で沈下橋と呼んだ場合はこの48橋を指す。保存対象となっている沈下橋が万が一壊れた場合は、四万十川沈下橋保存方針に沿って元の形に戻すことになっている。

架かっている場所によって形状に特徴があるのも面白い。上流から中流域、支流で多く見られるのは、橋脚、床版ともに長方形のコンクリートを組み合わせたような形状。それほど高さを出せないつくりのため、川面との距離がより身近に感じられる。また、ある程度高さが必要な場所や川底が深い場所では、橋脚に鋼管が使われる。こちらは下流域でしか見られない形状で、比較的長く大型なのが特徴だ。

※「流域沈下橋保存に係わる全国事例調査結果」高知県

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四万十川最大の中州、三島に架かる第一三島沈下橋。JR予土線の鉄橋と並行するその景色から、“撮り鉄”の撮影スポットになっている(写真提供:©円谷プロ)

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増水時の向弘瀬沈下橋(写真提供:公益財団法人四万十川財団)

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3年前の台風で被災した里川沈下橋。その後何度か修復を行うも、2020年の増水で再び床版が流失。設計変更を余儀なくされ、今も壊れたままになっている

どうして橋を沈下させるのか

高知県内の沈下橋では、高知市内を流れる鏡川に架かっていた柳原沈下橋(1927年に完成、1977年に撤去)が最古のもので、この橋を参考に県内各所で沈下橋がつくられることになったのではないかと考えられている。四万十川流域で最も早くつくられた沈下橋は1934(昭和9)年にできたもの。それ以前は、支流には橋脚に板を這わせた橋はあったようだが、本流には橋ではなく渡し場があった。

藩政期から木材の供給地だった四万十川流域では、伐り出した木材を下流へ流した。川は木材の輸送路でもあったため、そこに橋があると都合が悪く、渡し舟が両岸を行き来していた。それが昭和に入ると、木材運搬がそれまでの舟運から陸送に切り替わっていく。木材をトラックに積み込んで川を渡るための橋が必要になり、コンクリート製の沈下橋が四万十川にも架けられるようになった。

橋が沈下する形式が取り入れられた一番の理由は、建設費用が安く抑えられるからだと言われている。水面のはるか上に架かり、増水時にも橋としての使用に耐えうる抜水橋(ばっすいきょう)に比べ、使用するコンクリートの量が圧倒的に少なくて済んだ。水の抵抗を受けにくい形にし、欄干をなくし流木が引っ掛かって水の流れが悪くなるリスクを下げたことで、結果的に橋は長持ちし、補修しながら使われてきた。

住民が主体となってつくったものもあれば、行政に陳情して完成したものもある。初期のものほど前者のほうが多かったようで、住民にとって生活圏に橋が架けられることは悲願だった。

沈下橋の誕生によって物流や人の交流が活発になり、流域で暮らす人々の生活環境は飛躍的に向上。経済、生活、文化などあらゆる面で沈下橋は欠かすことができないものとなっていった。

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沈下橋の原型と言われる早瀬の一本橋。橋台に木の床版を乗せただけのつくりだが、木にはワイヤーが付けられていて床版が下流に流されるのを防いでいる

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橋脚の水色の鋼管が印象的な、最下流に架かる最長の佐田沈下橋。一時期、自動車教習所の路上教習コースで使われ話題に

「不便の象徴」から四万十川のシンボルへ

高知市内を流れる鏡川や、西日本最高峰の石鎚山(愛媛県)を水源とし、高知市と土佐市の境で太平洋へと注ぐ仁淀(によど)川にもかつてはたくさんの沈下橋があった。しかし、役割としても地理的にも県の中心である高知市に近い所から開発が進み、沈下橋のすぐそばに大きく立派な抜水橋が建設されると、用のなくなった沈下橋は撤去された。

四万十川は高知市から離れた場所を流れる川だったこともありインフラ整備が遅れたが、沈下橋にとってはそれが幸いした。抜水橋の架橋が遅れ、その間に前述した四万十川沈下橋保存方針が定められたため、そばに抜水橋ができても保存対象の沈下橋が撤去されることはなくなった。こうして多くの沈下橋が残り、四万十川=沈下橋のイメージができあがっていった。

今でこそ「四万十川の象徴」などと言われる沈下橋だが、かつては「不便の象徴」と揶揄される存在だった。増水のたびに沈んで渡れなくなる橋を「早く抜水橋に架け替えたい」というのが地元住民の本音だった。

時は流れ、四万十川だけに沈下橋が多く残ったことで、橋を見物に訪れる観光客が増加。観光資源としての価値を認めざるを得なくなってからは地元の人々の意識も変わった。例えば、よそから人が来れば十中八九、沈下橋を見せに行くというほど今では誇りに感じている。生活道として多くの沈下橋が現役で活躍しており、万が一増水で橋が沈んでも、多くの場所で別のルートを使えば対岸に渡ることができるようになり、不満の声もすでにない。

本流に大規模なダムがなく、護岸工事もほとんどされていないことから「日本最後の清流」と言われる四万十川。大自然の密度がとりわけ濃いなかで、沈下橋は人工物でありながらなぜか周囲の景観によくなじむ。

緩やかな流れは時に牙を剥き、暴れ川と化して多くの災害をもたらしもするが、流域の人々はそんな自然の理(ことわり)に抗わず折り合って暮らしてきた。その精神性は、どこか沈下橋と重なる。

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勝間沈下橋

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若井沈下橋

車が通行できないものもあるが、沈下橋はいずれも現役。流域に暮らす人々の生活を支え続けている(佐田沈下橋)

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka