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Vol.264May.2024

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

石見銀山 [島根県] 大森銀山重要伝統的建造物群保存地区
(大森の町並み)
「銀の島」をけん引した
赤瓦の鉱山町

16世紀、世界中で銀の需要が高まると、
日本国内に史上空前の鉱山開発ラッシュが生まれた。
その中心にあったのが石見銀山。この銀山の発見により
かつてマルコ・ポーロが称した「黄金の国ジパング」は、
「銀の島」として世界にその名を轟かせることになる。
世界経済に大きなインパクトを与えたといわれる
この銀鉱山の発展とともに、歩みを進めてきた町がある。

石見地方ではおなじみの赤い石州瓦の屋根が連なる大森の町並み

石見(いわみ)銀山の本格的な開発は、1527年に博多の商人神屋寿禎(かみやじゅてい)がその地で銀山を発見したことに始まる。地上に露出していた銀を含む鉱石を見つけたと推測されている。寿禎は仙ノ山(島根県大田市)で採鉱し、船で博多へ輸送した。当初は鉱石のまま送っていたが、現地で銀にしてから送るほうが無駄は少ない。そこで寿禎は、鉱石を溶かして銀を取り出す製錬技術「灰吹法(はいふきほう)」を知る技術者を博多から石見銀山へ送り込んだ。

朝鮮伝来の灰吹法は、鉛を触媒とした製錬方法だ。鉱石の中の不純物を取り除くために、銀が含まれた鉱石と鉛を加熱し溶解させ銀と鉛の合金をつくる。鉄鍋に灰を敷き詰め、灰の上に合金を置き加熱すると、鉛だけが溶けて灰にしみ込み、表面張力の大きい銀は灰の上にとどまり、銀だけを取り出すことができるというものだ。

この灰吹法が石見銀山に伝わったことで、日本の銀製錬の歴史は大きな転機を迎えた。採鉱から製錬までの工程を一貫して行えるようになり、石見銀山での銀の生産量は飛躍的に増大した。また、生野銀山(兵庫県朝来市)や佐渡金山(新潟県佐渡市)など銀を産出する鉱山に灰吹法が伝播し、国内各地に鉱山開発ブームが到来し、銀を輸出できるほどの量を得られるようになった。石見銀山で生産された銀は、朝鮮半島を経由して中国へ輸出され、後に国内でも貨幣として使われるようになる。

石見銀山の噂は、遠洋航海で海外進出を目指していたヨーロッパにも届き、航海図にもその名が記された。16世紀後半から17世紀初めにかけて、ポルトガルをはじめスペインやイギリス、オランダが、「プラタレアス=銀の島」の名で知られた日本に来航し、銀を求めている。

銀の産出量は17世紀初めにピークを迎え、当時日本で産出される銀の量は世界の銀流通量の1/3を占め、その大半は石見銀山で採掘された銀であったという。

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龍源寺間歩は1715年に開発された代官所直営の大坑道。約630m続く坑道のうち入口から157mまでの区間が公開されている

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坑道の入口は、4本の丸太を支柱としたことから「四ツ留」と呼ばれる(龍源寺間歩)

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羅漢寺は、銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために建立された。岩盤の斜面には3つの石窟があり、501体の五百羅漢坐像が安置されている

銀山支配の中枢大森の成り立ち

灰吹法の導入以降、各地の鉱山では労働者が急増し、新たな町が形成された。石見銀山では、銀が含まれる鉱床が広く分布していた仙ノ山を中心に居住地がいくつも生まれている。

関ヶ原の戦い(1600年)に勝利し天下を手中に収めた徳川家康は、鉱山からの莫大な収入を見込んで、各地の主要鉱山の支配に乗り出した。江戸幕府が成立すると、石見銀山は幕府の天領(直轄領)となり、鉱山支配のための中枢施設である奉行所(後に代官所となる)を置き直接鉱山の経営にあたった。以前は周囲に山城を築いて鉱山を見張っていたが、仙ノ山を中心とした320ha、周囲8kmを柵で囲い、人や物資の出入りを管理するようになった。

奉行所はこの柵の内側、銀山柵内(さくのうち)と呼ばれる場所にあったが、寛永年間(1624~1644年)には柵外の大森町へ移された。銀山経営だけではなく行政や通商機能を発揮し、より広範囲に石見国全体を支配する上でも、街道に接した大森町に拠点があるほうが都合がよいために移転したと考えられている。

こうして柵内から大森町へと続く銀山川の谷筋に、石見銀山と周辺150あまりの村を支配する大森の町が誕生した。町には2万6千戸もの町家が立ち並び、活気にあふれたという。現在の町並みは、建物の大半が焼失した1800年の大火の後に建て替えられたもので、築後220年を経過した今も鉱山町の歴史的景観が良好に保たれている。

大森の町並みで興味深い点が、城下町のように武士と町人の居住区域が明確ではない点だ。理由は定かではないが、赤い石州瓦の屋根を葺いた商家や民家に混じり、灰色のいぶし瓦の武家屋敷が軒を並べている。

かつて代官所があった場所から約1kmにわたって伝統的な景観が続き、その先はかつての柵内。石見銀山を代表する坑道跡の龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)につながっている。間歩とは銀を掘った坑道のことで、石見銀山では約1000カ所の間歩が見つかっている。

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石見銀山資料館は江戸幕府の代官所跡に立つ。銀山の採掘工具や古文書、鉱石、絵巻といった貴重な実物資料を展示する

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明治時代に山の傾斜を利用してつくられた清水谷製錬所は、わずか1年半の操業の後に閉鎖。建物の基礎部分や石垣だけが今も残る

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接客に使われた旧河島家の座敷。屋敷配置や主屋の間取りなど代官所に勤めていた役人(武士)の邸宅の特徴をよくあらわしている

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大森では、通りに面して主屋が立つ商家に対して、旧河島家のような上層の武家屋敷は、通りに沿って土塀を廻らせ主屋との間に前庭を設けた。屋根には灰色のいぶし瓦が葺かれている

鉱山の歴史終幕 
世界遺産登録で再び脚光

江戸時代の初期にすでにピークを迎えていた石見銀山の銀の生産量は次第に減少した。明治時代になると、民間に払い下げられ、1887年に大阪の藤田組(現在のDOWAホールディングス株式会社)が採掘権を取得して新たに「大森鉱山」として開発を開始した。近代的な設備や技術が持ち込まれ、銀に代わって銅を主力とした鉱山経営が行われたが、1943年の台風被害が引き金となり、この年に石見銀山は鉱山としての歴史に幕を下ろした。

だが、石見銀山の歴史はここで終わりではなかった。石見銀山の価値を大切に守りたいと考える人は少なくなく、1957年には住民の自発的な保存活動である大森町文化財保存会が結成された。それ以降、石見銀山を歴史的な文化財としてとらえ、保護していく取り組みが段階的に行われていく。1987年に大森の町並みが重要伝統的建造物群保存地区に選定されると、石見銀山の歴史的な価値や魅力は人々の関心を集めた。さらに2007年には「石見銀山遺跡とその文化的景観」として国内では14番目、アジアの鉱山遺跡では初めて世界遺産に登録された。

世界遺産登録の際に重要なポイントになったのが、環境への配慮が確立されていた点だ。鉱山開発には製錬の燃料として多くの木材を必要とする。鉱山周辺で調達するケースが多いため、伐採により山の木がなくなることが常だったが、石見銀山では開発が始まった当初から適切な森林管理が行われ、山の緑が保たれていた。また、銀生産の拠点となった銀山や大森の町以外にも、街道や山城、積出港など採掘から搬出までの銀山運営の全体像を示す遺産が開発の手を逃れ、しっかりと残されていたことも大きかった。

大森の町並みはいわば銀の通り道。仙ノ山一帯で採掘された銀は、大森を経由して流通した。周囲の緑に映える赤瓦が軒を連ねる静かな現在の雰囲気からは想像し難いが、「銀の島」日本に活気をもたらした石見銀は間違いなくこの道を通り、海を越え、世界経済に大きな影響を与えている。

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熊谷家は銀山経営などで栄えた石見銀山で最大の商家。漆喰塗りの土塀で囲まれた現存する「熊谷家住宅」は、1800年の大火後に再建されたもの

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暖簾をくぐり土間に足を踏み入れると、太い大黒柱と梁組に支えられた大空間が広がり、往時の栄華を感じられる(熊谷家住宅)

銀山川沿いの谷間に伸びる道筋に、代官所跡や武家屋敷、商家などが混在する大森の町並み

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka