コベルコ建設機械ニュース

Vol.265Aug.2024

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

旧諸戸家住宅(六華苑)[三重県]
“近代建築の父”が手がけた
山林王の邸宅

伊勢湾に注ぐ木曽三川(木曽川、長良(ながら)川、揖斐(いび)川)の
河口に広がる町・桑名。古くから河川海上交通の要衝で、
後に東海道42番目の宿場町としても栄えた。市街地を流れる揖斐川沿いには、
かつて東海道の一部を海路で結んだ「七里の渡し」の渡船場跡があり、
その近くには鮮やかな空色に彩られた洋館の塔屋の屋根が木々の間から
顔をのぞかせている。建物は、桑名で「山林王」と呼ばれた実業家が、
近代の日本建築に多大な影響を与えた英国人建築家に依頼し建てた
「旧諸戸(もろと)家住宅(六華苑)(ろっかえん)」である。

木造2階建ての洋館と和館が連なる「旧諸戸家住宅(六華苑)」。多角的に張り出した洋館のサンルームは、コンドルのこだわりがもっとも現れた部分だといわれる

二代で財を成した諸戸家の躍進

明治・大正時代の日本では、服装や生活スタイルの西洋化が一般市民に急速に浸透していった。なかでも西洋風の館を備えた邸宅を建てることは、当時の政府高官や成功を収めた実業家たちにとって新しい時代のステイタスだった。1911(明治44)年に着工し、13(大正2)年に竣工した実業家・二代諸戸清六(せいろく)の新居、現在「旧諸戸家住宅(六華苑)」と呼ばれる邸宅もまた、そうした背景から生まれた。

諸戸家は加路戸(かろと)新田(現在の三重県桑名郡木曽岬町)で代々庄屋を務めていた家だった。ところが、江戸時代末期の清九郎(せいくろう)の代に塩の売買に失敗し、多額の負債を抱えた。そのため、夜逃げ同然に一家で柔名へ移住してきたという。清九郎の長男清六は父の死後、18歳で家を継ぐと、手元のお金で米穀業を営み、わずか3年で負債を完済。明治維新のあとも新政府の要人との人脈を頼りに事業を拡大し、田畑の開墾や山林の植林を行い、一代にして莫大な財産を築き上げた。

清六には四男六女の子どもがいたが、長男と三男は早逝しており、06(明治39)年に清六が死去すると、諸戸家は2つに分かれた。次男が家屋敷を継承(西諸戸家)し、当時18歳で旧制早稲田中学に通っていた四男が桑名に呼び戻されて二代目諸戸清六を襲名し、家業を引き継いだ(東諸戸家)。林業を営み、後に「山林王」として財を成す二代清六は結婚を機に、初代が暮らした屋敷の隣地に前述した新居を完成させた。

4層まである円形の塔屋と、鮮やかな空色の外壁が印象的な木造洋館の設計を手がけたのは「日本近代建築の父」とも呼ばれ、明治・大正時代の日本建築に多大な影響を与えた英国人建築家ジョサイア・コンドルである。

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洋館と壁一枚でつながる和館。まっすぐに伸びた廊下は、主人や来客のための「畳廊下」と、使用人が通る「板廊下」に分かれている。洋館側には、創建時から水洗トイレが設けられていた。桑名の飲料水不良を解消するため私財を投じて独力で上水道を完成させ、市民に無料で開放した初代清六の功績が見て取れる

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洋館と和館の壁が接続している様子がよく分かる

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洋風の部屋の中に和風のふすまが設けられるなど建物内の各所に和洋折衷が見られる(洋館2階居間)

青年実業家はいかにして設計を依頼できたのか

当時の日本は、近代的な西洋技術の導入を積極的に進めており、さまざまな分野で外国人の技術者を雇い入れていた。コンドルも日本政府の招きに応じて、1877(明治10)年に25歳で来日。5年間の雇用契約だったが、当初の予定を大幅に上回り、13年もの間政府の仕事に携わった。その後も日本に残り、活動の場を民間に移して、精力的に建築と向き合うことになる。西洋式社交場として開設され、欧化政策の象徴とも称された「鹿鳴館(ろくめいかん)」(現存せず)やレンガ造りの教会「ニコライ堂(東京復活大聖堂)」(東京都千代田区)、「島津忠重邸」(現在の清泉女子大学本館、東京都品川区)、「古河虎之助邸」(現在の旧古河庭園本館と西洋庭園、東京都北区)などを設計したほか、工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科の前身)の教授として後進の指導にあたり、多くの日本人建築家を育てた。教え子には、東京駅の設計で知られる辰野金吾らがおり、彼ら門下生が後の日本建築界をリードしていくことになる。

コンドルが設計した建築物は70近くあるが、多くが東京とコンドルの事務所があった神奈川県に集中しており、それ以外の場所で現存する唯一の建築物が桑名の旧諸戸家住宅である。政府高官や大財閥の邸宅を設計してきた著名な建築家に、地方都市の、しかも代替わりしたばかりの23歳の青年が設計を依頼できたのはなぜか。

「依頼の経緯は定かではありませんが、諸戸家は初代の頃から後に内閣総理大臣になる大隈重信や三菱の創業者一族の岩崎家との交友がありましたので、いずれかの紹介があったと考えられています」と、六華苑の石神教親苑長は話す。

コンドルは政府の仕事から退いたあと、三菱財閥の顧問を務め、岩崎久彌の本邸(現在の旧岩崎邸庭園洋館、東京都台東区)などを設計している。また、グループの三菱地所には旧諸戸家住宅の設計図面が保管されており、このことからも岩崎家が仲介に関わったと推測できる。

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洋館客間の天井、シャンデリアの付け根にはコンドルが好んで用いたというバラのレリーフがあしらわれている

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和館の屋根には瓦、洋館には天然スレートが葺かれた

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庭園に張り出すように1階にはベランダ(写真右)、2階には同じ広さをもつガラス張りのサンルーム(写真左)が設けられた。当時としては斬新な設計であったようだ

施主の想いに応えた近代建築の父

旧諸戸家住宅は、揖斐川と長良川を望む約1万8000㎡もの敷地にコンドルが手がけた洋館のほか、和館や長屋門、土蔵などの建造物群と、池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の日本庭園が設けられ、まさに山林王の名にふさわしい偉容を誇る。

洋館のシンボルである塔屋は、設計図面では3層とあるが、実際には4層で完成している。揖斐川堤防には初代清六が植えた桜並木があり(1959年の伊勢湾台風で消失)、塔屋から見渡せたが、桜があまりに大きく成長していたため、揖斐川の流れの眺望を遮っていた。そのため、急遽4層に設計変更したといわれる。コンドルの設計で4層の塔屋をもつのはこの旧諸戸家住宅だけである。二代清六は、4層からの眺めを大変気に入っていたようで、しばしば客人を招いていたという。

明治時代の邸宅で、洋館と和風建築物が並び建つことはそう珍しくはないが、敷地内に別棟で建てられるか、あるいは洋館の一部に和室をしつらえるのが一般的だ。ところが旧諸戸家住宅では、洋館と和館が壁一枚でつながっており、中で行き来ができるようになっている。この時代では他に類を見ないつくりである。洋館と和館は同時に建設が進められ、和館を手がけたのはコンドルではなく、諸戸家専属棟梁の伊藤末次郎が腕を振るった。

二代清六の邸宅には洋館・和館ともに過度な装飾がなく、施主の好みが随所に反映されている。コンドルはこの若い施主の意向を汲んだようで、簡素ですっきりしたヴィクトリア朝様式を基本としたつくりには、コンドルの他の作品には見られない明快さがあるという。

旧諸戸家住宅は、その後の改築・改修や太平洋戦争による被災があったものの、創建時の姿をほぼそのままにとどめている。敷地および建造物群の所有は東諸戸家から桑名市へと移り、93(平成5)年に一般公開を開始。このとき、清六の「六」と、桑名の呼び名の一つであった「九華(くはな)」から、六華苑の名がついた。建造物のうち、明治・大正初期を代表する洋館と和館は97(平成9)年に国の重要文化財に指定され、2001(平成13)年には一部を除く庭園が「旧諸戸氏庭園」として国の名勝に指定されている。映画やドラマのロケ地としても活用されることが多く、塔屋やベランダがある特徴的な意匠や、池越しの洋館の姿を画面やスクリーンで一度は目にしたことがあるのではないだろうか。桑名きっての観光名所となった旧諸戸家住宅(六華苑)には、年間5万人の来苑者があり、往時の雰囲気を残す和洋の建造物と、風情のある景観を楽しむ人たちでにぎわっている。

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鮮やかな空色が目を引く洋館のなかでも、北東の隅にある4層の塔屋は洋館のシンボルともいえる存在

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洋館同様、きらびやかな装飾がほとんど見られない和館の「一の間」。来客用の座敷として使用された

邸宅の南側には、国の名勝に指定されている池泉回遊式の日本庭園が広がる

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka