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Vol.270Oct.2025

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

大内宿 [福島県]
半農半宿の営みを
今に伝える宿場町

福島県南会津郡下郷町の山あいにひっそりと開けた集落・大内宿。
分厚い茅で葺かれた屋根の家々が、かつての街道に沿って整然と並び、
江戸時代の面影を今も色濃くとどめている。
人々の暮らしが加速度的に変化し続けるこの時代にあって、
なぜこの集落だけが、かつての風景を守り抜いてこられたのか。
その答えを探しに、大内宿を訪ねた。

同じ時期に建てられた家屋が、道の両側にほぼ同じ形で整然と並ぶ。幕府や会津藩の建築規制によって生まれた、大内宿らしい景観だ

会津の要衝として整備された半農半宿の宿場町

会津地方の歴史と文化の中心地・会津若松から南へ車で約1時間。山あいの田畑の中に、茅葺(ぶ)き屋根の家々が並ぶ集落が現れる。江戸時代に下野(しもつけ)街道(会津西街道)の宿場町として整備された大内宿だ。

会津若松と日光・今市(いまいち)宿(栃木県日光市)を結ぶ約130kmの下野街道は、会津藩と隣国とを結ぶ主要街道の一つで、主に参勤交代や廻米(かいまい)(国許から江戸へ送られる米)の輸送に利用された。

大内宿は会津若松から3つ目の宿場町で、人馬の乗り換えや荷物の中継地として、多くの人や物が行き交う要衝として機能した。参勤交代の折、朝に城を出発した会津藩主一行は大内宿に昼頃に到着したため、昼食や休憩の場として重宝されたようだ。

源平合戦の時代、後白河天皇の第三皇子・高倉宮以仁王(もちひとおう)が平家の追手から逃れる途中、この地に立ち寄ったという伝承がある。記録で確認できるのはもう少し後のことで、1590年に小田原へ参陣する伊達政宗軍が大内村まで来た記録があり、この時点で人馬の通れる街道が存在していたことが分かる。

大内宿が本格的に宿場町として整備されたのは17世紀前半とされ、以降、人口が増加。1746年には78戸404名を数え、最盛期を迎えた。

下野街道は、会津藩が整備した本道五筋の一つで、政治的にも経済的にも重要な街道だった。しかし、大内宿では、参勤交代や物資の輸送による収益はあったものの、東海道のように頻繁な往来があるわけではなく、宿場業だけで生計を立てるのは難しかった。そこで住民たちは、街道に面した家で旅人を迎えつつ、裏手の畑では大豆や野菜を育てる「半農半宿」の暮らしを営んでいた。

こうした生活のあり方は、今も町並みに色濃く刻まれている。集落を貫く下野街道沿いには主屋が整然と並び、宿場町らしい景観を形づくっているが、裏側には農道が通り、さらに集落を囲むように田畑が広がる。街道と農地、双方に開かれたつくりが、大内宿がかつて宿場であると同時に農村でもあったことを物語っている。

旅人が行き交い、参勤交代の際には数百人規模の往来でにぎわった大内宿にも、やがて衰退のときが訪れる。

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江戸時代に本陣の代わりとして大名や役人の休憩・宿泊所として利用された阿部家主屋の「表二間」

孤立の時代を経て保存の道へ

大内宿は、時代の流れとともに徐々に活気を失っていった。1830年代の天保の大飢饉(ききん)以降、東北地方で飢饉が続き、耕作放棄や離村が進んだ。1844年に東廻り航路が開通して廻米の運搬ルートが変わり、下野街道の利用が減ったことで大内宿の経済は大きな打撃を受けた。1884年に会津三方(さんぽう)道路が開通し、大内宿は交通の中心から外れた。その後、山形県米沢市と栃木県宇都宮市を結ぶ国道121号も通り、交通の便が良くなったことで、宿場町としての役割が失われた。往来はなくなり、人口減は深刻化した。まさに最悪ともいえるこの状況が、皮肉にも集落の運命を大きく動かすことになる。

高度経済成長期(1955年~73年頃)、日本各地で都市化が急速に進むなか、伝統的な町並みや農村風景の保存への関心が一気に高まった。1967年、武蔵野美術大学の学生だった相沢韶男氏(後に教授)が大内宿の保存を文化庁に訴え、住民にもその価値を説いた。その熱意が文化庁や福島県、下郷町を動かし、1981年に大内宿は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。また、この経過で発足した保存会は「売らない・貸さない・壊さない」の三原則を掲げ、今も住民主体の保存活動を続けている。

大内宿は、街道と建物が一体となり、江戸時代の宿場町の姿を今に伝える全国でも珍しい町並みだ。街道沿いの約450mにわたって、茅葺き屋根の木造家屋が壁面線を揃えて並ぶ。敷地は間口6~7間(約10.5~13m)、奥行きが30~33間(約55~60m)とほぼ統一されている。

主屋は街道寄りに建ち、通りに面して「表二間(おもてふたま)」と呼ばれる二座敷分の客間を配置。その奥に「へや」「なんど」「かって」「どま」といった生活空間が続き、半農半宿の構造を残している。主屋と街道の間には、かつて荷の積み替えなどに使われた幅約6mの空地「オモテ」があり、この空間が町並みに独特の開放感を与えている。通りに並ぶ46軒の主屋のうち、36軒が江戸から明治にかけて建てられ、文化財として保存対象となっている。昭和以降の建物も、古い家屋の意匠に合わせて町並みに調和している。

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店先を横切る水路。藩政期には街道の中央に1本の水路があり、住民の生活を支えていたが、1886年に、道路の両側にそれぞれ1本ずつという現在の形になった

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かつて本陣があった場所に建つ「大内宿町並み展示館」。江戸時代の暮らしや風習を伝える民具などを展示する。建物の図面がないため、同じ街道の糸沢宿や川島宿の本陣を参考に復元された

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整然と軒を並べる家屋

住民の手で守る町並みの未来

集落の保存は建物だけでなく、住民の暮らしとも深く結びついている。なかでも町並みの象徴ともいえる茅葺き屋根は、美しさだけでなく厳しい気候に適した実用性も兼ね備え、保存の要となっている。

この地域の芽葺き屋根は、茅を1m以上重ねた急勾配の屋根で、断熱性と耐久性に優れ、雪深い地域の暮らしを支えてきた。しかし、約20年ごとに葺き替えが必要で、その費用は数百万円単位にのぼる。加えて、担い手である茅葺き職人の高齢化や人手不足も深刻な問題となっている。

多大な労力を要する茅葺き屋根の葺き替え作業だが、大内宿では古くから根づく「結(ゆい)」の精神によって、その営みが支えられてきた。

「結は、組織的な仕組みというよりも、助け合いの気もちが自然と行動に表れた地域特有の慣習です。誰かが困っていれば、まわりが手を貸し、それが巡り巡って戻ってくる。つまり、人の心そのものなんです」と、大内宿保存会の阿部正美さんは話す。

茅を葺く職人だけでなく、地域の住民たちもそれぞれの役割を担い、茅の刈り取りや運搬、補助作業を分担し、技術と景観の継承に力を注いでいる。

とはいえ、課題は少なくない。屋根に使われる茅にはススキ、チガヤ、ヨシなどがあるが、大内宿では主にススキを使う。休耕田を活用した茅場で育てているが、自給できるのは必要量の半分ほど。残りは外部からの調達に頼り、供給面で不安が残る。

空き家の増加も深刻な問題だ。定住者の減少が進み、新たな住民の受け入れが不可欠となっている。これまで「貸さない」とされた保存三原則の一部も、今の状況に合わせて見直されつつあり、将来に向けて住民主体の話し合いが重ねられている。

茅葺き家屋を良好な状態で保ち続けること。それは町並みの景観を守るだけでなく、大内宿という集落の未来を築く土台そのものであり、その意識は住民一人ひとりに深く根づいている。

阿部さんら保存会の長年の尽力もあり、現在の大内宿には年間約100万人の観光客が訪れる。かつての半農半宿の営みこそ失われたが、茅葺きの古民家には土産物店やそば屋が軒を連ね、人々を迎え入れる民宿もある。大内宿は、暮らしのなかで今も息づく「生きた文化遺産」として、世代を超えて受け継がれている。

春の山桜と新緑、夏の蝉しぐれ、紅葉に染まる秋、雪に包まれた静かな冬。季節ごとに異なる表情を見せる大内宿は、訪れるたびに、過去と現在が静かに交差する、かけがえのない時間を私たちに届けてくれる。

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約20年周期で行われる茅葺き屋根の葺き替え。風雨にさらされ傷みやすい屋根の頂部「グシ(棟)」をつくる様子

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旧街道に沿って立つ「一の鳥居」は、平安時代、平氏に追われてこの地に身を潜めたという高倉宮以仁王を祀る高倉神社への参道の入口

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毎年7月2日に高倉神社で行われる「半夏(はんげ)祭り」は、高倉宮以仁王をしのぶ大内宿最大の伝統行事。集落全体が祭り一色に包まれる

二間続きの座敷「表二間」と縁側を利用した店が軒を連ねる。店先には、空地の「オモテ」が広がり、通りに開放感をもたらしている

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka