コベルコ建設機械ニュース

Vol.243Jan.2019

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

大浦天主堂[長崎県]
終わりと始まりの天主堂

2018年7月4日、長崎県と熊本県に残る12の構成資産からなる
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産の文化遺産に登録された。
現存する最古の教会建築として国宝にも指定されている
「大浦天主堂」もその1つ。今から154年前に、
世界の宗教史上でも類を見ない奇跡の舞台となった教会だ。

1879年に間口を左右に一間ずつ、奥行きも2倍に拡張されているものの、聖堂内中央部とマリア像の祭壇は創建当初のまま

弾圧が生んだ潜伏キリシタン

戦国時代も末になると、西日本を中心に広まったキリスト教(カトリック)に規制の波が押し寄せる。はじめは布教を認めていた豊臣秀吉も、信者拡大の勢いに不安を感じたのか1587年に宣教師の国外退去を命じた(伴天連追放令)。その10年後に出した禁教令はさらに厳しいもので、京都や大坂で捕らえた宣教師や日本人を含む信者を長崎まで歩かせ、西坂の丘(長崎市西坂町)で十字架に架けさせた。このとき処刑された26人は後にローマ法王によって聖人の列に加えられるのだが、この二十六聖人に捧げられたのが大浦天主堂だ。正式名称を「日本二十六聖殉教者聖堂」という。 
 キリスト教の信仰を実質的に禁じたのは、禁教政策を受け継いだ江戸幕府。1614年の全国禁教令以降、信者は棄教を迫られ、ときには激しい拷問が加えられた。弾圧を逃れて信仰を捨てなかった者は「潜伏キリシタン」となり、人目につかない山間部や陸から離れた島々で息を潜め、キリスト教徒であることを隠して表向きは仏教徒として振る舞う道を選んだ。 
 今回、世界遺産に登録された12の構成資産はいずれも禁教下でひそかに信仰を守り続けた潜伏キリシタンに関わるものだ。島原の乱(1637年)でキリスト教信者らが立てこもった原城跡以外は、ほぼすべてが潜伏期に暮らした集落跡だ。唯一、建物として大浦天主堂が選ばれている。
 大浦天主堂が完成した1864年はまだ禁教下だった。国内に教会があること自体が不思議なのだが、隠れているはずの潜伏キリシタンとはどのような接点があったのだろうか。

カトリック界の奇跡「信徒発見」

1859年に長崎が開港すると、外国人が暮らす居留地として大浦(長崎市大浦)が開放された。居留地内に限って外国人のための教会を建てることは認められていたので、赴任後すぐにフューレ神父は教会の建設に着手した。本当は、かつて二十六聖人が殉教した西坂の丘に建てたかったようだが、残念ながら西坂は居留地の外。ならばとフューレ神父は、西坂の丘の方角に正面を向けて大浦天主堂を建てた。
 「居留地に見たことのない西洋の建物ができた」という噂はすぐに広まった。完成の翌年に行われた落成式から1カ月が過ぎた頃、フューレ神父の後輩のプチジャン神父が祭壇で祈りを捧げていると、15名ほどの日本人男女が教会に現れた。1人の女性が神父のもとへ歩み出ると、「ワタシノムネ、アナタトオナジ(私たちもあなたと同じ信仰を持っています)。サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。この女性らは浦上村(長崎市浦上地区)の潜伏キリシタン。弾圧もいとわない決死の告白によって、260年におよぶ禁教下の日本においてキリスト教が生き続けてきたことが明らかとなった。大浦天主堂で起きたこの出来事はカトリック界の奇跡、「信徒発見」として今も語り継がれている。

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海を見下ろすその先には西坂の殉教地がある

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JR長崎駅の目と鼻の先にある日本二十六聖人殉教地は現在、西坂公園として整備されている

随所に見られる日本の伝統技術

現在は、表面を漆喰で塗り込めたレンガ造りの建物だが、信徒発見があった創建時は木造建築だった。外観は3本の尖塔がそびえるゴシック風で、正面中央の壁面はバロック風。さらに日本伝統のなまこ壁が配されるという和洋折衷様式。創建時の木造の建物を取り囲む形で増築し現在の姿となった。
 設計者は天草の小山秀之進(後に、秀と改名)。大浦天主堂のすぐそばにあるグラバー邸をはじめ、後に重要文化財となる多くの建造物を手がけた人物だ。フューレ神父は自身が起こしたスケッチやパリにあった教会の写真を小山に見せると、小山はそのイメージに沿って設計図を作成。日本の伝統技術を巧みに使って、一度も見たことのない西洋建築の再現を試みた。例えば、聖堂内部のリブヴォールト天井。中世後期の教会建築で発展したゴシック様式を象徴するもので、本来は石やレンガが積まれた天井の重さを柱へ受け流す役割を果たす。小山は竹のしなりを利用して曲面を作り、土と漆喰で固める日本の壁作りの技術を駆使して木造でこの曲線を描く天井を再現している。

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交差するアーチの形状が、コウモリが羽を広げたときの形に似ていることから「コウモリ天井」とも呼ばれるリブヴォールト天井

信仰はなぜ守り続けられたのか

 信徒発見後、宣教師に接触を求める人が次から次へと大浦天主堂に現れ、ほかにも大勢の潜伏キリシタンが信仰を守り続けていたことが明らかになった。なかには、公然と信仰を表明する急進派もいて、禁教政策を引き継いだ明治政府はこれを見過ごすわけにはいかなかった。浦上や五島(長崎県西部の五島列島)などで大規模な弾圧が行われ、ここでも多くの潜伏キリシタンが命を落とした。ところが、この弾圧が結果的に禁教の終焉を早めた。対応を欧米諸国から激しく非難されると、事を重く見た政府は1873年に信仰の黙認を決定。禁教令は262年ぶりにその効力を失うのであった。
 それにしても、迫害や弾圧に遭いながらもなぜ潜伏キリシタンは信仰を守り続けることができたのだろうか。大浦天主堂キリシタン博物館の大石一久研究部長はこう推測する。
 「仏像を拝めることができるのがある程度の地位の人に限られるなど、長崎の一般在家にとって仏教寺院は縁遠い存在でした。そこに宣教師が入り込み、生活者一人ひとりと向き合ったことで“自分たちも救われる”という希望が芽生えたのでしょう。そして弾圧されるかもしれないという緊張感が潜伏キリシタンとしての意識を育み、迫害にも屈しない強靭な意志を形成するに至ったのではないでしょうか」
 禁教解禁後、潜伏キリシタンはその後の信仰を自ら選択した。宣教師の指導下に入りカトリックへと復帰する者、神道や仏教へと改宗する者、引き続き禁教期の信仰形態を続ける者(「かくれキリシタン」と呼ばれ「潜伏キリシタン」と区別される)と分かれていった。
 今回の世界遺産登録は、2世紀以上にわたるキリスト教禁教下における潜伏キリシタン独自の文化が評価されたものだが、なかでも大浦天主堂にまつわるエピソードは際立つ。潜伏キリシタンにとっては、先祖代々の信仰や伝統が終焉を迎えるきっかけとなった場所であり、宣教師にしてみると、奇跡的な信徒発見を機にその後の再布教の起点となった場所だ。
 弾圧に次ぐ弾圧、そして「終わりと始まり」の舞台となった大浦天主堂にまつわる物語は、はりつけから復活したというイエス・キリストと重なるのは気のせいだろうか。

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創建時の大浦天主堂。3本の尖塔をいただく西洋風の様式に、日本古来の土蔵や民家でおなじみの格子模様「なまこ壁」を配した斬新な外観だった(写真協力:長崎文献社)

1953年に、現存する日本最古の教会堂として国宝に指定。2018年より、世界遺産としての価値も新たに加えられた

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama / photographs by Katsuaki Tanaka