コベルコ建設機械ニュース

Vol.248Apr.2020

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

筑後川昇開橋[佐賀県・福岡県]
橋桁を高く掲げる
可動橋

九州最大の河川、筑後川。
有明海に注ぐ河口から8.5km遡ると、2本の鉄塔を備えた朱色の橋が現れる。
高さ30mの鉄塔と鉄塔の間にある橋桁は高く掲げられ、時にそれは下降する。
橋の名は筑後川昇開橋。
可動式橋梁の一つである昇開式の橋としては、国内に現存する唯一のものだ。
佐賀、福岡両県にまたがる筑紫平野の産業を支えたというこの橋の歩みをたどる。

レールや枕木を撤去した後、1996年に遊歩道として生まれ変わった筑後川昇開橋。2003年には国指定重要文化財に、07年には日本機械学会により機械遺産に認定された

列車と船舶の交錯を可能にした橋

長崎本線佐賀駅(佐賀県佐賀市)と鹿児島本線矢部川駅(現在の瀬高駅、福岡県みやま市)を結ぶ国鉄佐賀線の着工は、昭和に入ってすぐのこと。長崎 — 熊本間の移動時間短縮を主な目的としたこの計画には、一つ大きな問題があった。九州最大の河川、筑後川を横断しなければならないことだ。川幅が広く、有明海沿岸地域特有の厚く軟らかい粘土質の川底、さらには軟弱な地盤という悪条件が重なり、架橋の可否すら懸念されたが、一帯をボーリング調査した結果、橋を架けるなら河口から8.5km地点が良いと分かった。

福岡県大川市若津地区と佐賀市諸富地区が向かい合うその場所は、かつて「大川口」と呼ばれた物流の一大拠点。特に左岸の若津港は米穀流通の中心地で、明治から昭和初期にかけて取扱高で博多港(福岡県福岡市)を大きく上回る筑後地方最大の港町であった。

佐賀線の建設が決まった当時、筑後川には橋の高さを優に超える煙突やマストのある大型船舶が年間600隻以上往来していた。たとえ小さな舟でも、満潮時には水面と橋桁が接近するため航行が困難になることが予想された。しかも若津、諸富の両港があるのは、架橋地点よりもわずかに上流だった。つまり、新設される橋には列車と大型船舶の双方が通行可能な仕組みが必要となる。そこで検討されたのが可動橋だ。橋の一部を開閉して船を通す可動橋には、橋桁が跳ね上がる跳開式、橋桁が水平方向に回転する旋回式などいくつかの種類があるが、諸条件を考慮した結果、橋桁が上下に昇降する昇開式が採用されることとなった。

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可動桁が降りた状態で満潮になると、小舟でも航行が困難になるほど水面が橋桁に接近する

逆転の発想で難工事を突破

全長507.2mにおよぶ筑後川昇開橋(以下、昇開橋)の工事は橋脚の建設から始まった。川の中に11本の橋脚を設置するためにそれぞれ川底を15〜18m掘削するのだが、流速が最大3m、干満差は最大で3.5mと大きく、水面の位置も一定ではないため作業は困難を極めた。橋脚が立つと今度はそこに橋桁を渡していく。橋桁の架設には足場を組む方法やケーブルを渡す方法があったが、地盤の弱さや一つの橋桁が36mと長いことからいずれも適切ではなかった。そこで考えられたのが、大きな干満差を利用した新しい架設方法だ。橋桁を陸上で組み立てた後、2隻の台船に乗せ、潮が満ちるのを待ち架設場所まで曳航。橋脚と橋桁の位置を合わせた後、潮が引くのを待ち、橋脚に橋桁が完全に乗ったところで固定した。架設に不利な自然環境を逆手に取った合理的な方法であった。

2基の鉄塔に挟まれた中央の可動桁を水平に最大23m引き上げる構造は、若津側の鉄塔に設置されたモーターでワイヤーを巻き上げて昇降させた。片側巻揚式という可動機構はこの橋のために考案されたもので、操作はボタン一つで行えた。48tの可動桁と同じ重さのウエイトが2基の鉄塔から下げられており、可動桁が動き出す時にこのウエイトが反対側に動いてモーターに負荷が掛からないよう工夫されている。

仕組みは鉄道省の技師だった坂本種芳という人物が考案した。熱心な手品愛好家でもあり、新しいトリックで人を驚かせるのが大好きだったという。そんな心理が昇開橋の設計にも働いた、と後に坂本は話している。

すべての工事が完了したのは1935年3月27日。同年5月25日に総延長24kmの国鉄佐賀線全線が開業した。

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明治以降、国内で建設された可動橋は100を超えるが、昇開式の可動橋としては現存する国内唯一のもの

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引き潮の時にだけ見られるデ・レーケ導流堤。おびただしい数の自然石をアーチ状に積み上げて築かれている(昇開橋の下流側にある新田大橋から有明海方面を見て)

有明の風土に寄り添う建造物

佐賀線の開通で沿線住民の利便性は著しく向上した。通勤通学の足としてはもちろんのこと、佐賀 — 熊本間の移動で1時間の短縮が実現。筑紫平野で採れた米の輸送も早くなったほか、以前は筏を利用するしかなかった木材の運搬も佐賀線のおかげで効率化でき、大川市では家具・建具の生産が増加。町の発展に大きく貢献した。

ところが、自動車の普及によって国道の整備が進み、1955年に昇開橋の上流に橋が架かると佐賀線の利用者は徐々に減っていった。国鉄が分割・民営化される直前の1987年3月27日を最後に佐賀線は52年の歴史に幕を下ろした。廃線後の工作物は撤去されるのが常だが、昇開橋は地域のシンボルとして親しまれてきた橋だっただけに、存続を求める要望は強かった。願いは通じ、1996年に鉄道橋は遊歩道へと変わったがその形を今にとどめている。

現在、毎週月曜日の休業日以外は午前9時から午後5時までの間、可動桁が昇降し、橋の上を歩いたり昇降を間近で見たりすることができる。鉄塔付近には操作員2人が常駐し、訪れる人に気軽に声をかけている。

「現役の鉄道橋だった頃も常時2人体制。鉄塔付近にある木造建ての信号所で寝泊まりをしながら列車の運行を見守り、橋の昇降を行っていました」

そう話すのは、元国鉄の職員だったという操作員。橋の下流を指差して、川の中に昇開橋に勝るとも劣らない歴史的建造物があると教えてくれた。満潮時には川の中心線に沿う目印の杭しか見えないが、潮が引き始めると一筋の「石の道」が現れる。この幅約11m、長さ約6.5kmにもおよぶ石組みは、設計を指導したオランダ人技師の名を取ってデ・レーケ導流堤と呼ばれている。干満差の影響で筑後川は土砂が蓄積しやすく、しばしば航行が困難になった。そのため、川幅の半分だけでも水深が得られるように、川の中央部に堤を設けて流れを人工的に片側へ誘導させることで、流れの勢いだけで河底に溜まる土砂を有明海へと流す仕組みを設けた。昇開橋より古く1890年に完成しており、この仕組みのおかげで、筑後川の水深は確保され、大型船の航行が可能だったわけだ。デ・レーケ導流堤は現在も変わらず機能している。

このデ・レーケ導流堤にしても、二つの異なる交通機能を両立させた昇開橋にしても、有明海沿岸という地域性を抜きにその存在を語ることはできない。そこには風土の理にかなった叡智が存在し、今も生き続けている。

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昭和40年頃の筑後川昇開橋(写真提供:財団法人筑後川昇開橋観光財団)

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船舶の通行が優先されていたため、列車が通る時以外は、可動部は23mの高さまで上げられていた。時間通りに昇降するため、時計代わりにしている人もいたという

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka