コベルコ建設機械ニュース

Vol.255Jan.2022

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歴史的建造物誕生の秘密を探る!

春日大社[奈良県]
奈良朝の面影残す
共生の社(やしろ)

奈良公園を歩いていると知らぬ間に、木々と石燈籠が並ぶ
春日大社の境内に足を踏み入れていることがある。
全国に約3000ある春日神社の総本社で、奈良時代の都であった
平城京の鎮護と国家繁栄を願って奈良時代に創建された。
なんでもこちらに祀(まつ)られている神様は、遙か遠くの東国から
シカに乗ってやってきたというが……由緒を確かめに奈良を訪れた。

参拝者は本殿の建つ内院敷地内には入れないため、本殿の前で高さ約10mの2階建の中門前から祈りを捧げる

シカに乗ってやってきた神様

社伝によると創建は奈良時代後期の768年。藤原氏の血を引く称徳(しょうとく)天皇の勅命で、左大臣藤原永手(ながて)らが平城京の東にある御蓋山(みかさやま)の中腹に四柱の神様を祀ったのが春日大社の始まりだ。祭神の一柱である武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、それに先立つ奈良時代の初め頃、遠く離れた常陸国鹿島(茨城県)から白鹿の背に乗り御蓋山の山頂に降臨し、すでに祀られていたとされている。また、正倉院宝物の中にある『東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)』という本殿創建以前に描かれた古地図には「神地」の文字があり、その場所は現在の春日大社本殿の位置と合致する。このことから春日大社創建以前からそこにはなんらかの祭祀機能があったことがうかがえる。

平城京の東側に連なる春日山の峰々やその手前に位置する御蓋山の一帯は、都を照らす朝日が昇る方角になる。奈良県中部にある日本最古の神社といわれる大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)の御神体が太陽の昇る方角にある三輪山であるように、日出ずる御蓋山一帯は早くから信仰の対象となっていたのかもしれない。

武甕槌命が降り立ったのはそんな場所であった。奈良時代の終わりに政変や疫病、飢饉が相次ぎ世の中が不安定になった時に山の頂から麓近くまで降りてきて、新たに社殿が建てられ平城京鎮護のために祀られることとなった。武甕槌命が乗ってきたシカは神の使いとして奈良の町の人たちに今も大切に扱われている。

奈良時代の姿形を保ち続ける

建物を建て替えるなら、より強くて頑丈な、あるいはよりその時代に合った技術を取り入れるのがセオリーだが、神社の世界では必ずしもそうではないようだ。常に新しく清浄であることを尊ぶ神社には、年数を定めて定期的に社殿を元の建て方で忠実に建て替える「式年造替(しきねんぞうたい)※」という制度があり、春日大社の本殿もこれに則って造り替え続けられてきた建物だ。周期は20年に一度。明治政府が本殿を文化財に指定してからは部分修復に留まっているが、奈良時代から幕末の1863年までは一度完全に建物を壊し、あらためて同じ場所に造り替え続けてきた。つまり、本殿は建物としては幕末期のものでありながら、姿形は奈良・平安時代のそのもの。当時の建築様式を継承するものとして国宝にも指定されている。

また、本殿は神社建築様式の一つ「春日造」を代表する建物でもある。切妻屋根(三角屋根)の妻側(三角がある側)を正面とした一間社(四本柱の正方形の建家)の正面にだけ向拝(こうはい)と呼ばれる庇(ひさし)を設け、仏教寺院建築の影響が色濃い反り返った屋根を掲げているのが特徴。庇や屋根の裏側を見ると、庇を支える構造材である垂木(たるき)の本数が、屋根を支えている材よりも少なく簡素なつくりになっていることから、庇は後付けされたものと推測できる。その後、各地に広まった春日造は構造が強化されたが、式年造替で建て替えられる春日大社の本殿は、原初的な春日造の姿を今にとどめている。

春日大社の式年造替がなぜ20年周期なのかは分かっていないが、技術伝承という点ではこれほど合理的なサイクルもない。

木材をはじめ天然素材は材料の元の形が分からなければ再現は不可能だが、周期が20年ならば元の材はまだ腐らずに残っているため、現物を見ながらの作業が可能だ。またこの周期であれば、現場を任された職人やその弟子は、前回の造替を知る親方の指導のもと作業を行える。次の造替の時には、現場を担当した職人は指導の側にまわり、かつての弟子が現場を任される。式年造替のおかげで、職人の技術を後世に切れ目なく継承させることができていることは間違いない。

※伊勢神宮(三重県)のものが有名だが、あちらは「式年遷宮」といって20年周期の造り替えだけではなく本殿を建てる場所も替えている

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約700年前に描かれた『春日権現験記(かすがごんげんげんき)』では幼木の姿だった高さ25mの「社頭(しゃとう)の大杉」。その根元から斜めに延びる柏槙(びゃくしん)の大樹は、隣の直会殿(なおらいでん)の屋根に穴をあけてまで大切にされている

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本殿をはじめ主要な社殿を囲む廻廊。中央を壁で仕切り、内側と外側の通路それぞれに屋根を設置し、さらに大屋根で覆った珍しい三棟造。床面は傾斜し、地形に沿って建てられているのが分かる

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原初的な春日造の社殿が四棟並ぶ本殿。古来、貴重な水銀朱のみで塗られることが許されており、朱の色が非常に濃いのが特徴(撮影:桑原英文)

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一之鳥居の創建は平安中期頃。高さ7.75mの現在のものは1638年の再建で、日本三大木造鳥居の一つ

人と自然が「共生」する社

標高約300mの御蓋山の西の麓にある興福寺で約100m、さらに西にあるかつての都の中心地、平城宮跡歴史公園あたりまで来ると標高は約70mとなるように、奈良市の地形は東から西へと下っているのが特徴だ。春日大社の境内も同様で、本殿が建てられている敷地は決して広くはないが、東から西へ30〜50cmほどの高低差がある。その程度の傾斜ならば地ならしをして平らにすればよさそうなものだが、御神体でもある御蓋山の地形は崩さないという自然との調和、神道の言葉でいう「共生」が徹底されている。例えば、四棟が横に並ぶ春日造の本殿ですら、傾斜している地形に合わせて一棟ずつわずかに階段状にずらして建てられているのだ。

御蓋山を含む春日山では、841年の時点ですでに樹木の伐採や狩猟はおろか、一切の立ち入りが禁じられている。こうして春日大社の神域として、人の力で守られた春日山原始林が形成された。世界で最も市街地に近いこの原始林は、1998年に「古都奈良の文化財」として世界文化遺産に登録された東大寺や興福寺、春日大社などとともに8つの構成資産の一つに数えられている。

春日山原始林を背景に、自然と人との営みの調和が図られてきた春日大社において、神の使いとして大切にされてきた野生のシカが境内を自由に闊歩しているのは「共生」であろうし、春日大社を特徴づけている数多の燈籠も神仏習合(しんぶつしゅうごう)による「共生」の表れといえるのかもしれない。

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石燈籠にはシカをあしらった彫り物が目立つ

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境内の至るところに石燈籠が立ち並ぶ。最も古いもので平安末期のものもある

もともと燈籠は仏様に灯明を灯すための道具で、神道と仏教の信仰を一体化しようとする神仏習合の影響で神社に入り込んできたものだ。本来は本殿の前に一対置かれるが、崇敬者からの奉納が増えるにつれ境内に石燈籠が林立するように。石燈籠約2000基、釣燈籠約1000基の合計約3000基を数え、その数は神社では日本一。明治の世になるまでは、毎晩すべての燈籠にあかりが灯されていたという。

現在は、2月の節分と8月14、15日の一年のうち3日間に限りすべての燈籠に火を灯す万燈籠(まんとうろう)神事で往時の姿を偲ぶことができる。残念ながら2020年から2年連続で規模を縮小し、廻廊にある燈籠にだけ火を灯し、諸願成就と新型コロナウイルス感染症の早期収束が祈願されている。平城京の危機に際し、山から降りた武甕槌命の目には、すべての燈籠に火が灯らないこの状況が、どのように映っているだろうか。

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東廻廊に懸け並んだ釣燈籠

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一大行事の万燈籠神事の雰囲気を常時体験できる藤浪之屋(ふじなみのや)の釣燈籠

日が昇る方角の御蓋山一帯では、神の使いでもあるシカをよく見かける

砂山幹博= 取材・文 田中勝明= 撮影 text by Mikihiro Sunayama /
photographs by Katsuaki Tanaka