歴史的建造物誕生の秘密を探る!
高知城[高知県]
幾多の災いを免れた
南海道随一の名城
城の中心的な建物で、城主の威厳を象徴する天守。
江戸時代までに築かれ、今なお残る現存天守は全国に12城。
そのなかで、藩主の政務や儀式が行われた本丸御殿も併せて残るのは、
高知城のみである。南海道随一の名城として名を馳せたこの城が、
なぜその壮麗な姿を今日まで留めることができたのか、その秘密に迫る。
高さ18.5mの天守は、外観が4重、内部は3層6階建ての望楼型。天守とつながる本丸御殿は、特別な儀式のために使用された
泰平の世に蘇った戦時の姿
高知城を創建したのは、土佐藩(現在の高知県)初代藩主の山内一豊(やまうちかつとよ)だ。関ヶ原の戦いで東軍側につき勝利に貢献した一豊は土佐を拝領し、56歳にして一国一城の主となった。
本拠地となる城を構えるにあたって一豊が目をつけたのは、城下町を作るのに十分な広さを見込める高知平野中央部の大高坂山(おおたかさかやま)。もともとこの場所には、南北朝時代に柵と土塁で築かれた大高坂山城という城があった。戦国時代末期に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が四国の覇者になると、1588年に岡豊城(おうこうじょう)(高知県南国市)からこの大高坂山城に居城を移し築城に着手している。しかし数年後、豊臣秀吉が行った朝鮮への出兵に備えるため、土佐湾に面した浦戸城(高知市浦戸)へ本拠地を移した。滞在が短かった上、資料も残っていないため長宗我部時代の大高坂山城の規模や構造は明らかではないが、2000年から実施された高知城三ノ丸の発掘調査で元親が築城したと推定される石垣が土中から見つかった。このことから一豊は、長宗我部時代の城の石垣の上に盛土をして城を築いたことが分かる。
1601年の秋から築城を開始し、2年後に本丸と二ノ丸が完成すると一豊が入城した。その後も工事は続けられ、全容が整ったのは10年後、2代藩主の治世となった1611年のことであった。
高知城の天守は、外観が4重、内部は3層6階建て。入母屋造りの屋根を載せた大きな二重櫓の上に、遠くを見渡すための二重の建物を重ねた望楼(ぼうろう)型と呼ばれる形式だ。望楼型天守は16世紀末頃の天守によく見られる形態だ。その後徳川の世になると、天守は下層から上層に行くに従って屋根が規則的に小さくなっていく五重塔のような形状の層塔(そうとう)型(松本城など)へと発展していく。
高知城は17世紀初頭に創建されたにもかかわらず、時流に反して古い望楼型を採用している。一説によると、高知城の天守は一豊が土佐に来る前に10年間在城し、思い入れのある掛川城(静岡県掛川市)の天守を再現したものであるという。そのため天守の屋根には、望楼型の特徴である唐破風(からはふ)や千鳥破風(ちどりはふ)が配され、天守の最上階を一周する廻縁(まわりえん)には、擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)が取り付けられた。掛川城にもあったというこの廻縁は、「目立つから遠慮すべき」という家老たちの諫言を振り切って、徳川家康の許可を得てまで実現させた一豊がこだわった部分だ。
1727年に城下町から上がった火災によって、高知城は追手門などわずかな建物を残してほとんどが消失したが、1753年までに創建当時の姿で再建された。すでに泰平の世であったが、初代天守を忠実に再現したため、戦時を想定した当時の仕掛けも多く蘇った。石垣を登ってくる敵を撃退する「石落とし」が設けられたほか、先のとがった鉄串が並ぶ「忍び返し」は現存する唯一の例だ。このように高知城は、初期天守の伝統的な建築様式を今に伝える遺構として大変貴重な建物である。

最上階にめぐらされた廻縁と、手すりに相当する黒漆塗りの高欄は権威の象徴としての意味ももつ。一豊のかつての居城・掛川城の天守にも取り付けられていた

本丸の南側を固める黒鉄(くろがね)門。扉の外側に、黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられている。儀式の際に藩主が出入りする門だった

本丸と二ノ丸の間をまたぐように設けられた詰(つめ)門。敵がこの門を突破しても本丸から遠ざかるようなつくりになっている

詰門の二階部分は二ノ丸と本丸を結ぶ通路になっており、藩主のもとに向かう武士の詰所となっていたことが門の名前の由来
水を御する独自の設計思想
一豊が築いた城は当初、河中山(こうちやま)城(または河内山城)と呼ばれていた。その名は、北に江ノ口川、南に鏡川という2つの川に挟まれた地形「河中」に由来する。
南に広がる太平洋からの暖かく湿った空気が、内陸の四国山地にぶつかると、上昇気流が発生し多量の雨を降らせる。南国土佐は今も昔も全国で最も降水量が多い地域の1つ。台風の襲来も多いため、平野部などの土地の低い場所は水害の影響を受けやすかった。
江ノ口川と鏡川を自然の外堀として東西に広がるようにつくられた城下町は、もともと湿地帯で水はけが悪い土地。築城と並行して治水工事が行われていたが、たびたび水害に見舞われた。この状況を憂いた2代藩主は「河中」の名を嫌い、「高智山城」と改名。それが転じて「高知城」となり、地名も「高知」として定着した。
治水工事では、洪水から城下町を守るために堀の内側に石積みの堤防が築かれた。この工事には、近江国(滋賀県)出身の穴太衆(あのうしゅう)が関わったと考えられている。穴太衆は全国的に名を知られた石工集団で、江戸時代初期に各地で進められた城郭建築において、城壁の構築を担った技術者たち。高知城の石垣も穴太衆によるものだ。石垣に使用されている石材は主にチャート(堆積岩)で、ほとんど加工をせずに積み上げた野面積みが多くの場所で採用されている。一見雑然とした積み方だが、雨の多い土地柄を考慮した排水能力が高く非常に頑丈な築き方である。
雨の多い土佐においては敵からの防御と並んで水対策が重要であった。高知城の城内には多くの水路が設けられ、石垣上部から突き出した石樋(いしどい)で排水を行っていた。ほかにも建物の壁には、塩焼灰と発酵藁(わら)スサを水ごねした土佐漆喰が使われた。雨の多い土佐の気候に合った耐久性に優れた漆喰である。このような設備は雨の多い土佐独特のもので、ほかの城郭では見ることができない珍しいものである。

高さ約13mの三ノ丸石垣は、1601年の築城開始から10年を要し最後に完成した。多くの面が自然石の形を活かした野面積みで構築されている

石垣上部に突き出す石樋は、城内に雨水が溜まるのを防ぐ排水設備。本丸や三ノ丸などに16カ所確認されている

廻縁より本丸を見下ろす。天守や本丸御殿のみならず、本丸の建造物が完全な姿で残されている

三ノ丸の土中で見つかった排水用の水路遺構。石組みの暗渠(あんきょ)の先には石樋があり、石樋から雨水が放出される。水路遺構は露出展示され見学が可能だ
幾度の困難を乗り越えて
明治時代まで存続していた城は340ほどあったというが、1873年の廃城令はこれらの城にとって運命を左右する大きな転機となった。要塞として必要な城は「存城」、不要な城は「廃城」として分類され、廃城に指定された城は破却された。存城となった城は40余りあったが、その多くは軍用地確保のために建造物が取り壊されている。
江戸時代を通じて土佐藩の政庁であり、藩主山内家16代の居城であった高知城は、全国に先駆けて公園としての道を歩み始めたことで廃城を免れた。本丸の建造物群と追手門以外は取り壊されたものの、1874年に高知公園として一般公開された。天守には「咸臨閣(かんりんかく)」、本丸御殿には「懐徳館(かいとくかん)」という名が与えられ、懐徳館は一時期、図書館として市民に利用されていた。
1945年7月4日、高知市は米軍の空襲を受け、高知城周辺も焼夷弾による火災に見舞われた。さらに、翌1946年12月21日には南海地震が発生し、街は甚大な被害を受けたものの、高知城は奇跡的に大きな損傷を免れた。しかし、老朽化による劣化が進んでいたため、戦後間もない1948年から約10年に及ぶ解体修理工事が行われた。この間、15の建造物が国の重要文化財に指定され、解体修理終了後には敷地が国の史跡に指定されている。
山内一豊が築城を始めてから約420年。自然災害や政治的変動、さらには空襲による火災など、幾度となく危機に見舞われながらも、高知城が今なおその姿を保ち続けているのは、まさに奇跡としか言いようがない。「南海道随一の名城」と謳われた高知城の優雅で威厳に満ちた佇まいは、今に至るまで多くの人々を魅了し続けている。

天守の北面には、石垣を登る敵に備えた「石落とし」と「忍び返し」の鉄串が並ぶ

戦国時代末期に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が築いたと考えられる石垣。2000年に実施した三ノ丸の試掘確認調査で見つかった。山内氏が構築した三ノ丸石垣に比べると石材は全般的に小ぶりである

高知城の天守は、山内一豊(やまうちかつとよ)の前任地の掛川城の天守を模したといわれている(写真は掛川城天守)。掛川城の天守を復元する際には、高知城の天守を参考にした

1644年の高知城下の様子を記した「土佐国城絵図」。北を流れる江ノ口川と南の鏡川に挟まれた地形を利用し、東西に広がる城下町が作られた(国立公文書館デジタルアーカイブ「正保城絵図」より)